第90話 年下の女子を泣かす

「負けました」


 凛太郎がハッと顔を起こすと、ひかるは頬を真っ赤にして、ぽたぽたと涙をこぼしていた。


「おおー。大逆転じゃん!すげえ」


 反町が飛び上がって手を叩き、凛太郎の後ろにやってきて「すげえ、すげえ」と両肩をゆさゆさと揺さぶる。


 歩美はひかるにハンカチを差し出すと、その肩に手をまわして、そっと抱き寄せた。


 恭介は「ぷはー」と天井に向かって大きく息を吐き出した。


「ほとんど負けたと思ったよ。将棋部の部長として生きた心地がしなかったわ」


 戦わせといて勝手なことを、と思ったが、凛太郎も中盤までは完全な劣勢であることを認識していた。

 凛太郎は女子との対局ということで、しかもみんなに見つめられ、案の定の緊張で極端に視野が狭まり、序盤の駒組から失敗していた。

 その失敗が焦りにつながり、気づいた時にはもう手の施しようがないぐらいの窮地に陥っていた。

 しかし、そこでひかるの手が緩かった。

 ここで何とかしないと、一気に押し切られる。

 そう思った凛太郎は急に盤面に集中できるようになった。

 周囲の目が気にならなくなり、音が聞こえなくなり、相手のひかるのことですら、その指以外は見えなくなっていた。


「あっ」


 ドキッとした。


 いつの間にそこにいたのか、テニスウェアの永田さんが壁のそばで凛太郎に向かって小さく拍手していた。


「いい対局だったね」


 はっきりとは聞こえなかったが、永田さんの口の動きで、その声は凛太郎の心にはっきりと届いた。


 凛太郎の頬がポッと熱を帯びる。

 良かった。

 永田さんに無様な姿を見られることはなかった。

 あのまま自滅していたら、と思うと背筋が寒くなる。


「檜山もすごかったぞ。将棋部のエースに互角以上の戦いだった」


 反町が凛太郎の横で中腰になって、歩美の薄い胸に顔を埋めているひかるを見た。


 ちらっとこちらに顔を向けたひかるの目が濡れていて、凛太郎は罪悪感に駆られる。

 挑まれた勝負とは言え、年下の女子を泣かせてしまった。

 こんな経験は生涯で初めてだ。


「ごめんなさい」


 凛太郎が謝ると、ひかるは冷たく目を細めた。


「謝られると、余計にムカつくんですけど」

「許してやってくれ、ひかる。うちの先輩、女子の涙に免疫がないから、こういう時どうしたらいいか分かんないんだよ」


 ひかるの肩を抱いていた歩美が凛太郎のフォローを入れる。


「檜山さんも、将棋部に入らない?大歓迎するよ」


 恭介はひかるの実力に目を付けたようだ。


 ひかるは部室の中をキョロキョロ見回して、フーっと息を漏らした。


「サッカーだったりテニスだったり、変な部活」


 確かに、ひかるの指摘どおりだ。


 凛太郎の隣にいた反町が「よくやったぞ、檜山」と手を伸ばして、ひかるの頭をくしゃくしゃと撫でる。


「先輩……」


 ひかるは潤んだ瞳で反町を見つめる。

 しかし、さらにじわじわっと涙が溢れてきて、それが零れ落ちるのを止めるようにキュッと目を閉じて立ち上がると、ドアに向かって走り出した。「私。強くなって、必ず先輩を取り返しに来ますから!」


「檜山……」

「ひかるを泣かせやがって」


 歩美が怒りを反町にぶつける。


「泣かせたのは、彼だろ」


 それを言われると、凛太郎は返す言葉がない。


「奥川先輩はあんたのために戦ったのよ」

「そもそもは君が檜山とこの企画を立ち上げたんじゃなかったっけ?」

「それとこれとは別問題よ」


 反町と歩美は机を挟んでにらみ合った。


「とにかく、これで五人そろったってことね」


 永田さんが近づくと、歩美と反町は従順な犬のようにうんうんと頷いた。


「で、部長。俺が出るのは、どういう大会なんだ?」

「地元の新聞社が主催してる大会だね。高校生五人一組のチームで、団体戦を戦う。大会まであと一か月もない」

「よーし。みんな、やるぞ!」


 反町が拳を高らかに突き上げる。


「あんたが一番弱いのよ。足手まといにならないでよね」

「歩美。団体戦なんだから、チームワークを損ねるようなことは言わないの」


 永田さんにたしなめられて、歩美は「はーい」とうなだれた。

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