第88話 恭介の暴走

 水曜日。

 ミーティングの日だが、恭介と一緒に部室に入ると何故か歩美が先にいた。

 こちらを向いて椅子に座っている。

 彼女の目の前には将棋盤が置かれており、すでに駒も並べられている。

 どうも、雰囲気が怪しい。

 歩美が人を寄せ付けないオーラを放っている。


 凛太郎は身の危険を感じて恭介を強引に前面に押し出し、部室の奥に入る。


「あ、歩美。どうしたのかな?今日は水曜日だけど」

「ちょっと、そろばんどころじゃないんで、バイトはお休みをもらって、将棋に専念することにしました」


 どちらでも良いんで私と対局してください、と歩美は自分の向い側の椅子を手で示す。


 凛太郎の頭の中でサイレンが鳴っている。

 近づいてはいけない。

 関わらない方が身のためだと直感が訴えてくる。

 凛太郎は恭介を人身御供として座らせようとするが、恭介の方も頑なに椅子に座ろうとしない。


「そろばんどころじゃないって、何?」

「お願いします。早く座ってください」


 歩美の目が怖い。

 ピリピリとした場違いな緊張感を全身から放っている。


 恭介が凛太郎を振り返って、「たろちゃん。俺じゃ、練習相手にならないから」と座るように強く促してくる。


 渋々座ると、先手番を譲られた。

 将棋は先に指す先手の方が有利であると言われる。

 自らを苦境に置いて特訓したいということか。


 凛太郎が飛車先の歩を上げると、歩美は角道を通すために歩を突いた。

 凛太郎は舟囲いに組む。

 歩美は飛車を振って美濃に囲っていく。


「今度の土曜にひかると将棋で戦うことになったんです。絶対に負けられない戦いがそこにある。というわけで、特訓しないといけないんです」

「ひかるって子、強いの?」


 凛太郎の隣に座った恭介が訊ねると、歩美は首を横に振った。


「分かりません。でも、ひかるが、将棋で決めよう、と言ってきたので、それなりに腕に自信があるんだと思います」

「決めるって何を?」


 凛太郎は思わず訊いてしまった。

 将棋部の歩美がサッカー部のマネージャーのひかると何故将棋をすることになったのか疑問でしかない。


「あいつです」

「あいつ?」

「私とひかるに関係すると言えば、反町しかありませんよ」

「反町君?反町君の何を決めるの?」

「あいつが将棋部として対外試合に出るかどうかです」

「出ればいいじゃん。反町君が出たいんだから」


 凛太郎は思うことを言った。

 それは反町の自由だろう。

 どうしてそれを歩美とひかるが決めるのか。


「そうでしょう?私もそう言ったんです。だけど、ひかるがぶつくさ言ってきて」

「駄目だって言ってるの?」

「私、高校生の将棋大会について調べてみたんです。そうしたら、個人戦はもちろんありますけど、三人一組や五人一組の団体戦もあるみたいで。五人一組の団体戦に出るんだったら、久美ちゃんやあいつが必要じゃないですか。久美ちゃんは今の時点で十分強いからいいんですけど、あいつにはもっと将棋部の練習に参加してもらいたいと思って。で、ひかるに、どうしたらいいか、訊いてみたんです。ひかるはサッカー部のマネージャーだから、そこら辺のことでアドバイスがもらえないかなと思って」

「ふーん。なるほど」


 サッカー部のことはサッカー部に訊く。

 それはそれで筋が通っている。


「そうしたら、いきなり、そんなの認めない、って。反町先輩はサッカー部なんだから、サッカー部の活動に専念してもらいたいって」

「なるほど。なるほど」


 反町はサッカー部のエースだ。

 サッカー部のマネージャーなら、そう言うのも無理はない。


「なるほど、じゃないですよ」


 ピシッと歩美に叱られた。「あいつが将棋部の大会に出たいんだから、そんなのあいつの自由じゃないですか」


「ま、まあね」


 ついこないだまで反町が将棋部に入ることに断固反対の意思を示していた歩美の台詞とは思えないが、凛太郎は歩美の気迫に押されて頷くしかできない。


「だから、私はあいつの選択に任せるべきだって言ったんです。そしたら、どうしても将棋部の大会に反町先輩を出場させたいなら、私に将棋で勝ってみろ、って言いだしたんです。だからあいつを賭けて私たちは将棋で戦うことになったってことです」

「な、な、何、何を、何、な、何だそれぇ!」


 それまで黙っていた恭介が、突然立ち上がって大声をあげた。

 興奮しているのか、活舌が非常に悪い。


「え?どうしたの、恭介君」

「な、何、何でそんな。えぇ?何をそんなの……」


 恭介は凛太郎のことが目に入っていない様子で、顔を真っ赤にして歩美に食って掛かる。


「どうしたんですか?恭介先輩。ちょっと、落ち着いてください」


 恭介の尋常じゃない様子に歩美も驚いている。


 凛太郎もこんな我を見失っている感じの恭介を初めて見た。


「ちょ、そんな。勝手に、そんな。お、俺、……俺。良くない、良くないんじゃないかな。良くないと思うな」

「何がですか?」

「そ、反町……。俺、良くないと思う。反町は反町だから。あ、歩美が、歩美がそんな勝手に、反町のこと、反町のために戦うとか、反町を賭けて戦うとか。そ、そんな、大事なこと、俺、俺は認めてないぞ。それに、そ、反町は、し、知ってるのか?」


 唾を飛ばしながら吐き出された恭介の言葉を整理してみると、どうやら、歩美とひかるが反町の知らないところで反町を賭けて戦うということはやってはいけない、と恭介は言いたいようだ。

 目が吊り上がり、頬が紅潮している。

 初めて見るけれど、恭介は怒っているのだろう。


「でも、でも。あいつがいないと人数的に出られない大会もあるんですよ。それにあいつも対外試合を望んでるわけで。それを邪魔しようとするひかるの方がおかしくないですか?私は将棋部のために、そしてあいつの自由のために戦うんです。先輩にはほめられこそすれ、文句を言われることはないと思ってました」


 歩美の方もヒートアップし出した。

 しかし、こちらの方は、こういう言い合いにも慣れているのか、繰り出す言葉に澱みがない。


 凛太郎はどちらかと言えば、恭介の味方だった。

 反町の知らないところで、反町のことを賭けて戦うというのはおかしなことだ。

 反町の意思が反映されていない。

 反町の行動は反町が決める。

 歩美やひかるが自分の思いのままに反町を動かすことはできない。


 だけど、これ以上、この二人がぶつかり合うのはよろしくない。

 それは分かっているのだが、口下手な凛太郎には何をどう言えばこの場を収められるのか、見当もつかない。

 どうしよう、どうしようと心の中で呪文のように唱えるばかりだ。


「お、俺は嫌だ。あ、歩美が、そ、反町のために、戦うのは、駄目だ」


 ん?


 この言葉を聞いて、凛太郎は急に胸がもやもやするのを感じた。

 今のはどういうことだろう。恭介が歩美たちの対決を反対しているのは反町のためだと凛太郎は思っていた。

 しかし、今の発言は歩美が反町のために行動するのが嫌だ、というように聞こえた。

 つまり、歩美が自分以外の男のために戦うことが恭介には我慢できなかったということ。

 もしかして、嫉妬?


「えっと。じゃあ……」


 歩美の目が陰り、頬が朱に染まる。

 歩美も凛太郎と同様に恭介の訴えを受け止めたのだろうか。「私じゃなくて、恭介先輩がひかると戦いますか?」


「あっ……」


 シューっと恭介から空気が漏れるような音がした。

 恭介の体が一回り小さくなったように見えるのは気のせいだろうか。「俺?俺があの子と?」


「ええ」

「どうしよう。どうしよっか、たろちゃん」

「え?僕に訊かれても、分かんないよ。でも、対外試合の前哨戦として、やってみたら?」

「やっぱ、無理。無理、無理、無理。無理だよー」


 完全にいつもの恭介に戻った。

 先ほどの剣幕は何だったのか、良く分からないけれど、もしかしたら、恭介は無意識のうちに歩美のことが……。


「分かりました。私からひかるに、こういうことは良くないからって、やめるように言ってきます。すいませんでした」


 あれだけ反町の自由にこだわっていた歩美も急に大人しくなってしまった。

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