第81話 天使の異変(その2)

 永田さんが公園にいた。

 あずまやのベンチに座って足をプラプラしていた。


 僕はどうすれば良いのだろう。

 凛太郎は逡巡した。

 ぎこちなく会釈一つだけして、このまま帰る。

 いつもの僕なら、そうしている。

 だけど、先ほど歩美たちの心配話を聞いたばかりでの、この遭遇だ。

 挨拶すらせず置き去りにするようにそのまま帰ったということが歩美たちの知るところとなったら、何を言われるか。

 だけど、いきなり永田さんと二人きりで僕にどんな会話ができるというのか。

 陰気な僕と一緒にいても、永田さんの気持ちが塞がる一方ではないか。


 そんなことを考えているうちに数秒経ってしまって、何故か永田さんが吹き出して笑った。


 永田さんが笑った。


 それを見ただけで、凛太郎の心は晴れやかになった。

 何だ。

 みんなの取り越し苦労だったんだ。

 永田さんは全然変じゃない。

 その笑顔はいつもどおりの、見る者の頬の筋肉をだらしなくさせるキュートさだ。


「奥川君。忙しい?」


 永田さんに訊ねられて、凛太郎は急に極度の緊張に全身を貫かれて痙攣のように小刻みに顔を横に振った。


 永田さんは凛太郎を手招きで呼んだ。


 催眠術にかかったように、凛太郎は永田さんに向かって歩き出した。

 手と足の動きが自分でもおかしいと分かったが、どうすることもできなかった。


「どうぞ。座って」


 永田さんが、自分の横のスペースを手で凛太郎に示す。


 傘を閉じて、腰を下ろすと人心地がついた気がした。

 正面に永田さんがいては、頭がのぼせる一方だったが、目と目が合わなければ、隣同士でも呼吸は楽になった。


 しとしとと降る雨の音が穏やかに耳に届く。

 あずまやの屋根から地面に落ちる水滴のリズムが軽やかだ。


「ここで、何してるんですか?」


 中空をぼんやり眺めながら、訊ねる。


「また、敬語」


 寂しそうにクスッと笑って、永田さんは叱るように凛太郎の腕に肘をぶつけてきた。


「な、何してるの?」


 頑張って敬語をやめてみた。

 声が上ずって、我ながら不自然極まりない。


「考え事」

「何か悩んでるんですか?いや、悩んでるの?」


 慌てて敬語を外したが、永田さんがまた笑う。

 笑ってくれるなら、いいかって凛太郎は自分を慰める。「少し元気ないみたいだけど」


「え?」


 永田さんがハッとした感じで凛太郎の横顔を見てくる気配を感じる。


「あ。いや……」


 凛太郎は正面にしっかりと視線を固定した。

 すぐ右に永田さんの顔がある。

 とてもこの距離で永田さんと目を合わせられない。「歩美ちゃんが、心配してるから」


「そっかぁ」


 永田さんは前に向き直って、足をプラプラさせる。「駄目だなぁ。私」


「そんなこと……」


 凛太郎は小さく首を振った。

 永田さんが駄目なら、すぐに卒倒したり寝込んだりする僕はどうなっちゃうんだ。


「奥川君は神様って信じてる?」

「神様?」


 神様のことで考え事って何だろう。

 全然想像がつかない。「普段はあまり信じてないかな。だけど、自分の都合で信じたくなる時もある」


「自分の都合でね」


 フフッと永田さんが優しく笑った。「それが普通なんだろうな」


「永田さんは信じてるの?」


 凛太郎の問いかけに、永田さんの空気が変わった。

 流れてくる空気が急に重く、冷たくなった。


「奥川君よりは信じてるかな」


 永田さんが無理に笑おうとしている感じが見ていなくても伝わってくる。「お母さんは私よりももっと深く信じてる」


「敬虔な人なんだね」

「そう……ね。敬虔なクリスチャン」

「へえ。クリスチャンの人、知り合いで永田さんが初めてだ」


 これまでの人生でキリスト教徒の人は周囲にはいなかった。

 奥川家には特に決まった宗教はないが、強いて言えば仏教になるだろう。

 大抵の日本人はそういう感覚なのではないか。


「クリスチャンと言っても、色々よ。でも、……私の母が最近入信したとこは戒律が厳しいの」


 永田さんの声が一気に小さく低く重くなった。


 凛太郎は直感的に、これが永田さんの異変の原因だと理解する。

 「最近」の出来事なのだから、その可能性はかなり高いだろう。

 「入信」、「戒律」という耳慣れない言葉に凛太郎は首筋がひんやりした。

 「新興宗教」という四文字熟語が脳裏に浮かぶ。


「そっかぁ」

「例えば、婚前交渉は禁止なんだよ」


 永田さんが無理やりに茶化したように言う。


 婚前交渉ができない。

 つまり、結婚する前に性交渉をしてはいけないということか。

 急に性的な話題を振られたけれど、四文字熟語で言われると、いやらしさが少し抑制された感じがある。


「それ、いいね」


 つい口から出てしまった。


 一生童貞を覚悟している凛太郎は、婚前交渉が禁止されていようが、さして問題にならない。

 どころか、結婚するまでそういうことをしないとあらかじめ決まっているのであれば、性的なことであれこれと悩まずに済むではないか。

 童貞であることを正当化できるのは、凛太郎には非常にありがたい。


「え?いいの?」


 弾かれたように立ち上がって凛太郎を見下ろす永田さんの目が驚きに満ちている。


 凛太郎は自分の迂闊さを呪った。

 良く考えずに、婚前交渉禁止を肯定してしまった。

 永田さんが軽い口調だったし、直感的に、婚前交渉禁止の方が何かと楽だと思っての発言だったが、それで永田さんを傷つけてしまったのだとしたら、取り返しがつかない。


「ご、……ごめん。僕、よく考えずに答えちゃって。パッと、それって楽だなって思っちゃったから。でも、現実的にはきっと色々な問題があるんだよね。簡単に答えを出して良いことじゃなかった」

「奥川君はいいんだ」


 ふーん、と言って頷くと、永田さんは何故か「ありがとう」と少し晴れやかな表情で傘を差して帰って行った。

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