第76話 バイト代の使い道

 微かに物音がした気がした。

 まだ眠りの沼に肩までどっぷり浸かったおぼろな意識のまま、息を殺して耳を澄ます。


 誰かが廊下を、玄関の方へ歩いていく。

 やがて、玄関の鍵を解いて、ゆっくり、ゆっくりドアを開く音。


 何時だろう。

 暗闇の中、凛太郎は手探りでスマホを探した。


 十二時三十七分。

 ベッドに横になって三十分ほどだ。


 スマホを戻し、再び眠りを求めて目を閉じる。

 しかし、このまま放っておいてはいけない気がして、頭が覚醒していく。

 何か気になる。

 出て行ったのは麻実だろうか。

 こんな時間にどこへ行くのだろう。


 ベッドから降りても体が大して重くないのは、まだうとうとし始めたところだったのか。

 最近、熱帯夜で寝苦しい日が続いている。


 凛太郎はできるだけ素早く、できるだけ静かに玄関に向かった。


 やはりドアには鍵が掛かっていない。


 胸がざわざわする。

 凛太郎は音を立てないようにドアを開き、夏の夜に身を晒した。


 むわっとした暑さに包まれる。

 道路に出るとすぐに汗が滲んでくる。


 凛太郎は左右に顔を振って、目的物を探した。


 いた。


 見覚えのある迷彩柄のパーカーのフード。

 麻実だ。

 早歩き気味にマンションから遠ざかって行く。


 凛太郎は小走りに麻実の背中を追った。


 五百メートルほど追うと、麻実はこの時間でも開いているファミレスに迷いなく入っていった。


 凛太郎は夜でも明るい駐車場で立ち止まった。

 このまま中に入ることはできない。

 広くない店内では、すぐに麻実に見つかってしまうだろうし、そもそもお金を持っていない。


 しかし、幸いなことに麻実は店の奥ではなく駐車場に面したソファ席に座った。

 あそこなら麻実の様子は容易に観察できる。

 そして、向いに座って待っていた男のことも。


 五十歳ぐらいだろうか。

 白いワイシャツ、黒縁の眼鏡、細い腕。

 どこにでもいそうなおじさん。

 どこにでもあるような色のない微笑。

 その温度のない微笑みにどことなく見覚えがある気がする。


 麻実はフードを被ったままで、表情は見えないが、少し全身に力が入っているように見える。

 店員が近寄ると軽く頭を下げて手を振る。

 注文しないことを告げたようだ。

 男に何か勧められたようだが、頑なに首を横に振る。

 長居する気はないらしい。

 向いの男に対して麻実が高い壁を構築している様子が手に取るように分かる。


 凛太郎は奥歯を噛んだ。

 麻実の緊張が伝染したかのように、胸がドキドキする。

 だが、自分が自分を鼓舞していることに気付く。

 何かあったら、店内に入り、麻実を守る。

 心がその準備をしているのだ。

 風のない駐車場でTシャツが体に引っ付いて不快だ。

 汗が胸のあたりに染みを作り出した。


 麻実がテーブルの上に封筒のようなものを置いた。


 男は申し訳なさそうに頭を下げたが、躊躇なく封筒を手に取ると、中を覗き、何かを言って頷いた。

 「すまんな。ありがとう」と口が動いたように思えた。


 封筒の中身が何か分かって、暑いのに凛太郎の腕には鳥肌が立った。


 男が無表情にズボンのポケットに封筒をねじ込むと、麻実は何か一言吐き出すように言って、席を立った。

 駆けるように店外に出てきて、そこで立ち尽くす凛太郎を見つける。


 麻実に驚いた様子はないことに、内心で凛太郎が驚く。


 麻実は、ふっと一つ息を漏らすと、潤んだ瞳を星空に向けた。


「帰ろう」


 凛太郎が促すと、麻実は声にならない声で「うん」と言った。


「あいつ。三か月に一度、現れるのよ」


 麻実の言葉には既にいつもの明るさが戻っていた。「毎度、毎度、律儀に。もう、嫌になっちゃうわ」


「あれが、……」


 答えは分かっているが、どういう言葉を遣うべきか迷う。「父親なの?」


 麻実は「そういうことになるわね」と小さく笑った。


 あの、取り立てて特徴もない、既に顔もはっきりとは思い出せない感じの男が自分の父親。

 その事実は凛太郎に激しい心臓が止まるような衝撃は与えなかったが、のどの奥に容易に飲み下せない違和感としてとどまった。


「お母さんにだけは会わせたくなくって」


 麻実の言葉には、凛太郎には知っておいてもらいたい、という意味が含まれているように思えた。


「あれ、お金……」

「困ってるんだって」


 麻実は苦笑いを見せる。「こっちも困ってるんだけどね」


「……バイトして貯めたやつ?」

「働き者でしょ」


 麻実はJKビジネス的なアルバイトをしては学校や母を困らせていた。

 だけど、麻実の裏側にはこういう事情が存在していたのか。


「僕に何かできることある?」


 お金を作ることは難しい。

 けれど、麻実だけに辛い思いをさせていたのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 麻実のことを蔑んでいた自分を殴りつけたい。


 麻実は肩をぶつけるようにして凛太郎の腕にもたれかかってきた。


「ギュッとしてよ、時々。それで頭、撫でて。麻実はいい子だよって。凛ちゃんは、それだけしてくれたら十分だよ」

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