第71話 待ち伏せからの急接近(その1)

 凛太郎にとって苦しかったのは一晩だけだった。


 何故苦しいのか。


 それを考えている間に、いつの間にか眠っていて、目覚めの気分はいつも通りだった。

 同じ時間に起き、着替え、食事をし、歯を磨いて、家を出た。

 同じルートで登校し、当然、いつもの自分の席に座る。

 それから放課後まで誰とも話さないのも、いつも通りだ。

 ここまでいつも通りをいつも通りこなせると、少し自信も湧いてくる。

 永田さんと反町が一緒にいるのを見て、自分が苦しいと感じる理由も必要もない。

 あれは苦しみと言うよりは驚きの一種だったのだ。

 あまりの驚きの景色に、その時は心身が驚きという感情だけでは受け止めきれず、一時的にその近くにあった苦しみの領域にまで侵食してしまったのだろう。

 今となっては、あの景色を思い返してみても、胸に去来するのは「あー、びっくりした」という感情だけ。

 やっぱり、そういうことだ。


 そう自分の中で完結させようと思っていたのに。


 テストが終了し、部活も再開となった。

 放課後。

 いつの間にか教室に恭介の姿はなく、仕方がないので一人で部室に行ったら、永田さんがいた。

 途端に、胸に迫った感情は驚きだけではなかった。

 何か味わったことのない感情が凛太郎の心の中でドラム式の洗濯機のようにぐるぐる回る。

 その感情の名称は分からないが、とにかく苦い。

 どこかに逃げ出したくなったが、「座って」と永田さんに言われ、ドアの横に隠れるように立っていた恭介にサッとドアを閉められ、逃げられなくなった。


「恭介君。何これ?」


 親友に逃げ道を消された自分の声が情けなく響く。


「たろちゃん。座ってよ。すぐに終わるから」


 恭介が、歯医者に来た幼児を諭すように言う。


 恭介は永田さんに懐柔されているようだ。

 世の中、敵ばかりだ。

 歩美はどうしたのか、と考えたが、今日は水曜日だった。

 そろばん塾の日だ。


「ど、どうも」


 凛太郎は怖々と永田さんの向い側の椅子を引いた。

 腰を下ろすと、例の永田さんの香りがして、緊張感と高揚感が一気に最高潮に達する。


「私ね」

「はい」

「将棋部に入ったの」

「え?」

「さっき、正式に部長に入部届出したんだ」


 言われて恭介を振り向くと、恭介は紙片を広げてみせた。

 大きく入部届と書いてある。


「テニス部はどうするの?」

「テニス部も続けるよ。だけど、このままだと将棋部が廃部になっちゃうって聞いて、そうなると私もここで将棋ができなくなるじゃない?」


 永田さんは八の字眉の困り顔を見せる。「私が将棋部に入るの、嫌?」


「そ、そんなことは……」


 凛太郎は首と手を左右に振って、思い切り否定する。


「これで、五人だから、廃部にはならないよね」

「五人?」


 永田さんが入っても、まだ四人だが。


「反町もさっき入部届を出してくれたんだ」


 恭介の手にはもう一枚、入部届があった。

 確かに、反町の名前が書いてある。


 反町……。


 その名前を聞いて、急に胸がズーンと重くなった。

 脳裏に、公園のベンチで反町と永田さんが談笑していた風景が蘇る。


「奥川君。何か怒ってる?」

「え?どうして?」

「だって、……。何となくだけど……」


 永田さんは急に自信なさげに目を落とした。「昨日、公園から走って、どこか行っちゃうの見たから……。あの時、奥川君、何か、いつになく怖い顔してたもん」


「見てたの?」


 見つかっていたのか。

 何と、恥かしい。

 凛太郎は永田さんを直視できなくなった。

 もともと、まともにできないが。


「ねぇ。何か、怒ってるの?」


 永田さんが小さな声で同じ質問を繰り返す。「もしかして、私のこと、嫌い?」


 私のこと、嫌い?

 訊かれた瞬間、顔からボッと火を噴いた。

 危うく反射的に「いえ。逆です」と答えてしまいそうになる。


「そんなことないよ。あ、あの時は、その……、ちょっとびっくりしただけで」

「良かったぁ。私を見て、逃げ出すから、嫌われちゃってるのかと思ったの」


 永田さんはホッとしたように体から力を抜いた。「あの時、反町君に相談されてたんだ。将棋部に入らないかって。俺たちが入らないと、将棋部がなくなっちゃうかもよって。だから、早速入部したの。だって……、だってね……」


 そこで見せた永田さんの少し恥かしそうな、上目遣いがこの世のモノとは思えないほど可愛い。

 さらに「奥川君ともっと一緒に将棋がしたかったから」と言われて、凛太郎は命の危険を感じた。


 やばい。

 頭の血管、切れそう。

 いや、切れたかも。

 ほら。

 もう、体がふらふらして……。


「たろちゃん!」

「奥川君!」

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