第70話 Eブック
テスト期間に部活はない。
従って、童貞ミーティングもない。
いつもより早い時刻の帰り道。
何故か恭介が凛太郎について来る。
「どうしたの?」
「何が?」
「恭介君の家とは反対方向だけど」
「ああ。気にしないで。ちょっと、こっちに用事があるんだ。テスト期間中だからって、待ってくれる用事ばっかりじゃないからね」
恭介は平気な顔で凛太郎と並んで歩く。「それより、たろちゃん」
「ん?」
「たろちゃんってエロ本を初めて見たのっていつ?どこで?」
「ちょ、ちょっと。恭介君」
恭介がいきなりエロ本の話を始めるので凛太郎は焦った。「こんな公衆の面前で、そういう話題はちょっと……」
「公衆の面前?いやいや。道路は公共の場ではあるけど、誰もいないよ」
恭介は「気にし過ぎだって」と笑った。
「そ、そうかなぁ」
凛太郎は声を潜めて周囲を確認する。
恭介が言う通り、近くに人は歩いていない。
時折、車道を車が通り過ぎるだけだ。「そうみたいだね」
「で、続きなんだけど」
恭介は平然と歩き出した。
「やっぱり続くんだね」
若干困惑の表情の凛太郎に恭介は光る眼鏡の向こうから、やれやれ仕方ないなぁ、という視線を送ってくる。
「じゃあ、たろちゃんのためにエロ本をEブックって言い換えてあげるよ」
「言い換えたところで、内容は変わってないんでしょ……」
「俺は忘れもしない。小学校三年生の秋だった」
恭介はお構いなしで続行する。
歩美も似たようなところがあるが、こうと決めたらやり通す意志の強さに凛太郎はいつも振り回される。
「き、季節は覚えてないけど、ぼ、僕もそれぐらいだったかな」
もう付き合うしかないと凛太郎は腹をくくった。
誰も聞いていない状況が確保できたら公道でも童貞ミーティングはできる。
「あの時、俺はそれを見たくて、見たんじゃないんだ。偶然、そこにあって、目に入っちゃった。それ以上でも、それ以下でもない。だけど、こういうものが世の中にはあるということを知った、あの時の衝撃はすごかった」
「そ、そういうのは分かる気がする。僕も偶然見つけちゃったんだよ」
「その頃、俺は今よりは少し社交的で、友達ももう少しいたんだ。中学校に入って体育で初めて発作を起こしてから激しい運動は禁止になったけど、それまではお医者さんから日常生活について何も言われてなかったから、公園で普通に友達と遊んでた。それで、その時も公園でかくれんぼをしてたんだ」
恭介と凛太郎の歩いていく方角に公園の高い木々が見え始めた。
「うわっ、偶然。僕も公園だったなぁ」
「俺は、その時、ベンチの裏に隠れたんだ。そうしたら、しゃがみ込んだ俺の目の前にEブックが……。着物の女の人が胸をはだけさせて、薄く口を開けてこっちを見てる写真だった」
「僕もベンチの裏だったよ。どうしてだろ。ベンチで読んで、ポイ捨てするからかな」
「ひょっとして同じEブックだったかも?」
恭介が少し驚いた顔をする。「だったら奇跡だよ」
凛太郎は苦笑いで「まさか」と答えた。
「僕、そんな着物の女性の写真に見覚えないもん」
恭介は「なーんだ」とがっかり肩を落とした。
「あの時、何だか分からないけれど、ものすごく興奮したんだ。写真から目が離せなかった。息苦しくて、心臓がバックンバックンして、壊れないか怖いぐらいだった」
「心臓、危ないじゃん。実はそれが最初の発作だったんじゃないの?」
「今思えば、そうかも。危なかったよ。心臓が弱い人間に、不意の初めてのEブックは危険すぎる」
「良かったね、大事に至らなくて」
その時、もしものことがあったら、今、こうしてくだらない話に興じることもない。
凛太郎の高校生活は今よりも味気ないものになっていたに違いない。
「何かさ、Eブックって良いんだよね。エロくて」
「当り前のことを言っている気がする」
「いや、ちょっと違うんだよ。俺がいつも見てる動画って、デジタル過ぎてさ、つまり、ファイルのアイコンを見たってエロさの欠片もないじゃん。それに比べて、Eブックはさ、そこに落ちてるだけでエロいって言うか。何とも言えない存在感があるわけよ。そして、子どもも大人も気になって仕方ないじゃん。それだけ惹きつける何かがあるんだよね」
「ま、まあね」
「だけど、Eブックの発行部数ってどんどん減ってるらしいよ」
恭介の口ぶりはまるで日本の生態系の話をしているかのように真面目なトーンだ。
日本の固有種が外来種によって駆逐され、個体数が減っているのと同じ深刻さで語っている。
「そりゃ、ネットで動画が配信されてて、わざわざ、レジでお金を払って物を買わなくてもいいからね」
「でもやっぱりEブックの良さはあると思うんだけどな」
「じゃあ、将来、Eブックを作る人になったら?」
「いや、ネット配信の手軽さには勝てないでしょ」
「何だよ、それ」
「で、偶然昨日、見つけたんだ」
絶滅危惧種でも見つけたのか。
「何を?」
「Eブックだよ。この公園の、あずまやのベンチの裏に」
公園の入口までやってきて、恭介はビシッと指差した。そして、「ああっ!」と驚いた声を出した。
凛太郎も思わず声を上げそうになって、恭介が凛太郎の口を手でガバッと押さえた。
二人の視線の先にあるあずまやのベンチに見知った人が座っていた。
永田さんと反町だった。
「まいったな」
恭介が凛太郎の肩をぐっと抑え込んで、公園入口の小さな柵に隠れるぐらい姿勢を低くさせる。「何やってんだろうな、あいつら」
凛太郎の胸の中は何とも言えない感情が渦巻いていた。
驚きは一瞬だった。
次にやって来た、そして今、胸を締め付けているこの苦しい気持ちは何だろう。
あの二人はここで何をしているのだろう。
何を話しているのだろう。
どちらがここに誘ったのだろう。
次々、疑問が湧いてきて、凛太郎は柵の上に目を出して、二人の様子を確認する。
二人は穏やかに談笑しているように見えた。
付き合っているのだろうか。
そうかもしれない。
若い男女が公園のベンチで語り合う。
それってそういうことと考えるのが普通ではないか。
「あのベンチの裏にEブックが落ちてるんだよなぁ」
恭介が悔しそうに言う。
それが何だと言うんだ。
凛太郎は、とにかくこの場に居たくなくて、家に向かって走り出した。
「あ!おい。たろちゃん!」
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