第64話 補導
母が麻実と一緒に帰ってきたのは午後十時を過ぎていた。
母からは帰りが遅くなる旨の連絡が来ていたので、凛太郎は夕飯をコンビニ弁当とカップラーメンで済ませていた。
麻実もなかなか帰ってこず、連絡も取れなかったが、そういうことは珍しくないので、凛太郎は特に気にはしていなかった。
しかし、丁度風呂を済ませて出てきたところで玄関が開き、入ってきた母と麻実の様子に凛太郎は何か只事ではないことが起きたことを察知した。
二人は二人で数時間かけて作り上げたような重い空気を共有している。
間違いなく二人はどこかで落ち合い、長い間話をしていた。
しかもかなりストレスのたまるテーマで。
「な……」
何かあった、と訊ねようとして口を開いたが、何も訊かない方が良いと凛太郎の危機回避システムが働いてキュッと口を噤んだ。
「さぁ、お風呂入って、さっさと寝よっと」
無理やりな感じで口角を上げて陽気に宣言したのは母だった。
軽い足取りで凛太郎の前を通ってリビングに向かう。
姉は黙ったまま俯き加減で自室に入って行った。
普段なら逆だ。
母は、疲れた、疲れた、とぐたっとしていることが多い。
麻実は何か嫌なことがあっても、引きずらず、ケロッとしているのに。
凛太郎は物音を立てずに自室に閉じこもった。
ドアには鍵がついていない。
誰も入って来られないように、ドアに板を打ち付けて開かないようにしたいぐらいだ。
しかし、そんな日が何事もなく終わるわけがなかった。
そろそろ寝ようかと、勉強に区切りをつけたときに背後のドアが開いて「ああー」というどんより声と共に麻実が勝手に入ってきた。
Tシャツにショートパンツという露出の高い部屋着で。
「肩凝ったぁ」
「何?」
「そっちこそ何よ。そんな不機嫌そうな声出しちゃって。可愛いお姉ちゃんが疲れてるんだから、マッサージしましょうか、ぐらい言ってほしいわ」
麻実は我が物顔で凛太郎のベッドに寝転がった。
腰をひねるストレッチをしながら「うぅ」と呻く。
すらりと伸びた足が艶めかしい。
「そもそも何で疲れてるんだよ。一体、何やらかしたの?」
こうなったら訊かざるをえない。
「別に悪いことしてないのよ。ちょっとバイトしてただけ」
「今度は何のバイト?」
麻実はこれまでいくつもアルバイトをやってきた。
ファミレス、コンビニ、大手チェーンの喫茶店……。
雑誌の読者モデルやメイド喫茶のスタッフもやっていた。
ただ、どれもあまり長続きしていない。
麻実は根気強くコツコツと同じことを続けるということが苦手のようだ。
年齢を偽って雇ってもらい、時給の高い深夜勤務をしていたが、学校にばれて辞めさせられたということもある。
今回も学校にばれて、母が呼び出されて二人で教師に説教されていたのかもしれない。
受験を控えた大事な時期にどういう了見ですか、というところか。
「ちょっとおじさんとお話ししながら、肩もみとか添い寝とかするだけの簡単なバイトだよ」
それって、よく女子高生が被害にあうという、いわゆるJKビジネスってやつじゃないか。
そうは思ったが、驚きはなかった。
麻実ならやりかねないなと前々から思っていたから。
「で、何で母さんと一緒に帰ってきたの?」
「警察がお母さんを呼んじゃったからよ」
「警察?」
さすがにこれは驚いた。「補導されたの?」
「お店に、ガサ入れって言うの?それが入ってね。で、私、十九歳って言って働いてたから、ちょっとね……」
「ちょっとねって。……懲りないね」
「結局、短時間でチャチャッと稼げる仕事しかできないのよ、私。今回のバイトはすごく私に向いてたんだけどな。警察の言ってることってよく分からないのよね。もっと、自分を大事にしないと、とか、バイトは他にもあるでしょ、とか言われたんだけどね。自分の性格に向いてて、個性をかなり有効に活用してるすごくいいバイトだって思わない?全然危ないことなんてないんだよ。個室の中の様子ってスタッフさんがしっかりチェックしてるからね。私、すごく安心して添い寝してたから、ガサ入れのときなんか本当に眠っちゃってて、騒がしくて目が覚めたら部屋の中に見たことない屈強なおじさんが何人もいて、めちゃびっくりよ。そういうプレイもありだったっけって思っちゃった」
麻実は楽しそうに枕を叩いて笑う。
麻実に言って聞かせるのは骨が折れるだろう。
大人の考えている常識はなかなか通用しない。
「母さんを困らせないようにしなよ」
これが一番麻実にはこたえる。麻実は母思いの良い奴だから。
「まあね。……そうする」
麻実は少ししょんぼりした表情で立ち上がり、ドアに向かった。
「お金がいるの?」
麻実が振り向くのに一瞬間があった気がした。
「当り前じゃん。うちのお小遣いじゃ全然足りないよ」
麻実の笑顔が凛太郎には少し苦しげに見えた。
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