第63話 虫刺され

 緊張感で息苦しい。

 しかし、この時間がいつまでも続いてほしいとも思う。


 外は雨が降っている。


 部室には永田さんがいる。

 そして反町も。


 二つ並んだ長机の一つで、凛太郎と反町が向かい合っている。

 もう一つの机では凛太郎と背中合わせで永田さんがいて、歩美と将棋を指している。

 反町が、あーだこーだ話しかけてくるが、凛太郎の意識は永田さんがいる背中の方にどうしても集中してしまう。


「蒸し暑いね」


 歩美がパタパタと下敷きで扇ぐ音がする。


「うん。ムシムシするね」

「冷房の設定温度をもう少し下げてくれないかな」

「温度設定は生徒では変えられないからね。これで職員室だけ涼しかったら怒るけど」

「それぇ」

「ああー、気持ちいいー」


 歩美が永田さんに下敷きで風を送って、凛太郎の後頭部や首筋にも風が届く。

 涼しいだけではない。

 届いている風は永田さんを撫でてからのもので、良い匂いがするような気がする。

 そう感じただけで、凛太郎は頭がのぼせそうだ。


 一人離れて、壁にもたれて「将棋の道」を読んでいる恭介が、ニタニタ笑ってこちらを見ているのに気づいて、凛太郎は慌てて顔を引き締めて次の手を指した。


「こっちも扇いでー」


 反町が両手を広げて凛太郎越しに歩美に風を求める。


 振り返ると、歩美はチッと口元を歪めて、下敷きを長机に叩きつける。


「また、怒られちゃったよ」


 反町が困った顔を見せ、すぐに爆笑し、手を伸ばして凛太郎の肩をバシバシ叩いてくる。

 何が面白いのか全く分からないが、そのメンタルのタフさは羨ましいの一言だ。


「髪長いと暑くて大変でしょ?」


 歩美の髪は入部当初よりは少し長くなったとは言え、耳にかかる程度だ。

 一方の永田さんは肩甲骨の辺りまである。


「ほんと、あっつい。それに、今日は何か……」


 凛太郎の腕を誰かがツンツンと突く。


 凛太郎は全神経を背後の永田さんの挙動に集中していたが、まさかツンツンが来るとは思っておらず、立ち上がりそうになるぐらいにビクッと驚いた。


「な、何か?」


 凛太郎は唇を震わせながら、振り返った。


「ここ、何かできてない?」


 永田さんは髪をかき上げて首の後ろを凛太郎に見せた。

 そこには確かにポツッとした小さな赤い膨らみが一つあった。


「何か赤くなってるぞ。虫刺されだな」


 反町が身を乗り出して、永田さんの首を指差す。


「やっぱり?すごくかゆいんだよね。かゆみ止め持ってない?」


 永田さんに訊かれて、凛太郎は救いを求めるように恭介を見た。

 と同時に制服のポケットを探る。

 そこにはかゆみ止めの小さなボトル容器があるのだ。

 凛太郎はかゆいと無意識に掻いていて、よく傷になるので、この季節は常にかゆみ止めを持ち歩いている。


 恭介は眉尻を垂らして恵比須様のような笑顔を浮かべている。

 貸してあげなさい、とその顔が言っている。


 しかし、凛太郎は逡巡した。

 自分が使ったかゆみ止めを永田さんに使わせても良いのか。


「俺が掻いてあげよっか?」


 反町が伸ばした指をクイクイと動かす。


「奥川先輩、かゆみ止め持ってません?いつも持ち歩いてるって昨日言ってたじゃないですか」


 歩美の声が、反町を遠ざけると同時に凛太郎の退路を断つように大きく響いた。


 確かに言ったけど、そんな大きな声で言わなくても。


 凛太郎はかゆみ止めを震える手で取り出した。


「借りて良い?」

「ぼ、僕ので、よろしければ」


 永田さんは凛太郎の手からかゆみ止めを掴み上げ、躊躇いなく首の後ろに使った。

 凛太郎の肌に使ったかゆみ止めが、永田さんの首筋に、永田さんの意思で、永田さんの手によって使われる。

 それは非常に官能的に見えた。


「ありがとう」


 少し首を伸ばせばキスもできそうな距離で永田さんに礼を言われ、凛太郎は自分でもよく分からないごにょごにょとした返事をして、そそくさとかゆみ止めを受け取った。


「かゆっ。何か俺も急にここがかゆくなってきた。そのかゆみ止め、貸してくれよ」


 反町がズボンをまくり上げて、ふくらはぎをボリボリ掻く。


「あー。私も蚊に刺されたみたい。奥川先輩、かゆみ止め使わせてください」


 歩美は二の腕を永田さんに見せる。


 そこへ恭介がやってきて、「使う?」とポケットからかゆみ止めを取り出したら、二人とも急に静かになって、将棋に戻っていった。

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