第62話 突然の雨

「あれから反町君、来ないね」


 一人で詰め将棋をやっている歩美に聞こえないように声を潜めて、対局相手の恭介に話しかける。

 反町がこの部室で入部希望を表明したときから一週間が経つが、一度もここに姿を見せていない。

 歩美の猛反対で、諦めたのだろうか。


「来るわけないよ」

「どうして?」


 恭介は窓の外を指差した。


「雨降ってないじゃん。反町はサッカー部のエースだから、サッカー部の活動がある日は来ないよ」


 この学校は校舎が狭く、雨の日に運動する場所がない。

 さらに、かつて、グラウンドに雷が落ちて練習中の野球部の部員が死亡するという痛ましい事件が起きたことがきっかけとなって、運動部は雨の日は原則として休養日に設定されたということを聞いたことがある。

 従って、テニス部もサッカー部も雨の日は活動がない。


「サッカー部のエース?」


 知らなかった。

 反町はただでさえ見た目が良いのに、そんな付加価値までついているのなら、女子にモテモテじゃないだろうか。

 もしかしたら、……童貞ではないかもしれない。


 その時、遠くでゴロゴロと鳴った気がした。雷か。


「チッ」


 歩美が大きく舌打ちする。


 この学校では雷鳴が二度響くと、雨が降っていなくても外の運動部の活動は停止される。

 今頃、職員室ではネットで天気の状況が確認されているだろう。

 窓に目を向けると、黒い雲がどんどん広がり、辺りが薄暗くなってきている。


 そして案の定、雨が降り出した。

 降り出したと思ったら、雨脚はみるみる強くなっていく。

 ザザーと窓に雨粒が吹き付けられる。


「すごい雨になっちゃったな」


 恭介が立ち上がって窓の近くまで歩いていく。「大丈夫かな」


 恭介は誰のことを心配しているのか。

 雨に降られたであろう永田さんのことか。

 それとも、これからの自分たちか。


「いやあ、まいった、まいった」


 振り返ると、サッカーのユニフォーム姿の反町が肩にかけたタオルで顔を拭いながら部室に入ってきた。「もう、滝みたいな雨でさ。雨粒がでかくて痛いぐらいだよ」


 反町の髪が濡れていて、苦笑いが絵になって、日焼けした足の筋肉が引き締まっていて、同性の目から見ても何となく色っぽい。

 少し部室の空気が華やかになったようにも思う。

 その効果は永田さんほどではないが、イケてる人種特有の能力だろう。


 歩美は反町の存在を無視するように、スマホの画面から一切顔を起こさない。


「部長。ちょっと将棋、教えてくれよ」


 恭介が反町に呼ばれ、二人は向いあって座った。「これ、あれだよね。かつらうまだっけ。変な動き方するんだよね」


「桂馬かな」


 恭介が歩美の様子を目の端で確認しながら、「ハハハ」と愛想笑いを浮かべる。


「ああ、それそれ。知ってた?香車は平安時代にお香の香木を乗せる車、桂馬は香辛料を運ぶ馬。飛車は馬車のことで、角行の角は牛の角。つまり牛車の意味だったらしいよ」

「そうなんだ。知らなかった。反町君、物知りだね」

「俺、何でも根本から調べるタイプなんだ」

「へぇ。偉いなぁ」


 やり取りを聞いていると、どことなく恭介が反町に媚をうっているように感じる。

 凛太郎が恭介の立場でも同じことだろう。

 数が足りなくて反町に入部してほしいからというわけではない。

 イケていないと自覚している人間はイケていると思う人間と話すとき、そのイケている度の差を感じて無意識に自分を下に見てしまう。


 しかし、そんな様子の恭介に苛立って歩美が全身を力ませている雰囲気がその背中から伝わってくる。

 その足が貧乏ゆすりを始めたのは、イライラ度合いが強い証拠だ。


 恭介は反町に駒の動き方を一通り教え、それから、とりあえず、ということで一局指し始めた。


 対局中、反町はうるさかった。

 恭介に駒を取られるたびに「うわっ!」、「えぇ?」、「あっ!そうかぁ」と大きな声を上げる。

 しかし、それは初心者あるあるで、自分もそうだったと懐かしい感じがした。

 頭を抱えたり、両手を大きく広げたりとオーバーアクションだが、目だけはカッと見開いたまましっかり盤面を捉え続けている。

 反町のその様子が、本当に将棋に興味を持ち始めているように見えて、微笑ましかった。

 まるで足元のおぼつかない幼児が一心不乱に前を見据えて、一歩踏、一歩と足を前に出す姿を見ているような心持ちだ。


「うわぁ、ぼろ負けだ。俺、嘘みたいに弱ぇ」

「初心者だから仕方ないよ」

「不思議だよな。将棋盤って、こんなに小さいのに、実際やってみると、手に負えないぐらい広く感じる。端から端まで駒の関係を見渡すのが、すごく難しいのな。見えてるのに、全然見えてない感じ」


 反町が盤を見下ろして、小首をかしげながら言う感想が凛太郎には嬉しかった。


「そうなんだよ。将棋盤の外の持ち駒のことも考えなくちゃいけないし。一手動くだけで、世界がゴロっと変わるしね」


 恭介の言葉に凛太郎は心の中で激しく同意していた。

 将棋は奥が深くて、難しいけれど、すごく楽しい。

 反町の肩を抱いて、そう語り掛けたくなるのを何とかこらえた。

 

 歩美の貧乏ゆすりはいつの間にか止まっている。


「あー、疲れたぁ。何だか、サッカーより疲れる。腹減ったし。みんなすごいな。部活でこの対局を何回もやるんだろ?へとへとになるじゃん」

「慣れればそうでもないよ。でも、真剣にやると、体動かしてるみたいに汗もかくし、お腹もすくかな」

「お。雨、止んだ」


 突然、立ち上がると、反町は「サッカーに戻るわ。また、よろしく」と言い残して、颯爽と去って行った。


 いつもの三人が残った部室には、いつも以上の静けさが覆い、この感じは永田さんが帰って行った時と同じだなと凛太郎は思った。

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