第57話 顔射 ~恭介の家にて

「その後は3三馬、同銀、3二桂成じゃないかな」


 四人で額を突き合わせて考えているのは「将棋の道」の懸賞詰め将棋だ。


「ああ!すごい。そうだ。さすが久美ちゃん」

「長かったなぁ。やっと、これで応募できるね」


 永田さんと歩美が嬉しそうに「イエーイ」とハイタッチする。

 その流れで、歩美が恭介に向かって手を上げる。

 恭介は少し驚いた表情で、慌てたようにハイタッチに応じる。


 それを見て、凛太郎はその先を読んだ。

 ここで歩美と恭介がハイタッチをすれば次は自分だ。

 その流れで永田さんと手を触れあうことができるのではないか。


 自然な感じで歩美が凛太郎の前に来た。

 その向こうで永田さんが恭介に向かって動くのが見える。


 全てがスローモーションになった。


 歩美が強めに凛太郎の手に手を合わせてきて、少しびっくりする。

 凛太郎の視界の隅には笑顔の永田さんが恭介とハイタッチをするのが映る。

 恭介がスッと凛太郎の方に視線を送る。

 その恭介の目の動きに釣られたように永田さんが凛太郎を見る。

 そして永田さんが天使の笑顔で凛太郎の正面に現れる。


 永田さんの掌の柔らかさと温かさ。


 この手はもう二度と洗うまい。

 何も触るまい。


 凛太郎と恭介はひそかに見つめ合い、頷き合う。


「暗くなってきましたね」


 歩美が窓の外を見て残念そうに言う。


 そろそろ解散の時間か。


 今日は楽しかった。

 四人で買い物に行った。

 四人でおでんを作って、四人で詰め将棋を解いた。

 こんなに充実した日はなかったぐらいだ。

 名残惜しいのはもちろんだが、凛太郎にしてみれば贅沢をし過ぎて怖いような思いもあった。

 もう十分だと思わなければいけないだろう。

 ここで手を振り合って帰路につき、楽しい思い出のまま今日という日を心の中の額に飾るのも良いのではないか。

 こんな日はもう二度とこないだろう。

 家に帰ったら、しみじみと今日一日の出来事を思い出し、一つ一つ押し花を作るように、しっかり記憶に刻み込んでおきたい。


「おでん、どうする?」


 恭介が台所の棚をガサゴソ探す。「これに入れて持って帰る?」


 恭介は大きめのタッパーをいくつか出してきた。


「すごい、飛島先輩。何でもありますね」

「いや、それほどでも」

「そのタッパーに入れても多分けっこう余るよ」


 凛太郎は鍋の中とタッパーを見比べて言う。


「残ったものは、飛島先輩に差し上げます」

「オッケー。今日も明日もおでんだな」


 恭介と、凛太郎、歩美が話し合っている中で、永田さんだけが物憂げな感じで黙っているのが凛太郎は気になった。


「飛島君」


 永田さんが恭介に声をかける。


「ん?」

「変なこと訊くんだけど、飛島君って晩ごはんはどうするの?」

「どうするって」


 恭介は歩美を見た。恭介の義母が家を出て行ったことを永田さんは知っているのか。それを確認するような視線だ。「そりゃ食べるけど」


「何を?」

「そりゃ、おでんだよね。こんなにあるし」

「おうちの人も?」

「いや、一人で。親父は帰ってくるの、いつも深夜だから」

「だったらさ。厚かましいお願いないんだけど、飛島君がもし良かったら、みんなで食べない?四人で作ったのに、それぞれが持って帰って家で食べるのってなんだか味気ない感じがするのよね。それに、出来立てのおでんの味の感想とかも聞きたいし」


 永田さんの提案に恭介は「俺は問題ないけど」と言って、残りの二人を見る。


「たろちゃんや遠藤さんはどうする?」

「私は久美ちゃんが残るなら一緒に残るし、帰るなら一緒に帰ります」


 歩美の回答は非常に簡潔で分かりやすい。


「たろちゃんは?」


「僕は……」


 ここで「帰る」なんて言ったら、本当に一生後悔すると思う。

 凛太郎はみんなの顔を見ることができず、目を閉じ手を強く握りしめて言った。「僕もここで食べる」


 こんなこと初めてで、当然家でも夕飯の支度がされているし、麻実に問い詰められたら上手に言い逃れできる自信はないけれど。


「それならそうしようか」


 恭介は何か、思い至ったような、企み顔で冷蔵庫に向かった。「俺、おでんの卵にマヨネーズ掛けて食べるの好きなんだけど、我が家でおでんを食べるってことは、それにチャレンジしてもらうからね」


 歩美は「卵にマヨネーズ?」と眉をひそめたが、意外にも永田さんは「面白そうね」と乗り気だ。


 各々が皿におでんを取り、テーブルに着く。


 凛太郎のズボンのポケットの中でスマホがブルブルと震える。

 取り出して見ると、恭介からのLINEの着信を示していた。

 恭介を見ると、胸の前で小さくスマホを振っている。



 卵にマヨネーズかけると顔射っぽくない?

 卵が人の顔に見えて、白いものを掛けるのがたまんない(笑)



 LINEのメッセージを見て、凛太郎は人知れず顔を赤らめた。

 マヨネーズを勧めたのはそれが狙いだったのか。


 歩美が「本当においしいんですか?」と半信半疑の感じで卵にマヨネーズをかける。


「マヨネーズは万能だから、大丈夫でしょ」


 永田さんは歩美からマヨネーズを受け取り、自分の皿に向かって構えた。

 その時、容器の口でボフッと空気が弾け、マヨネーズが飛び散った。

 永田さんが驚きの顔でフリーズする。


「うわっ。久美ちゃん、顔射!」


 歩美が恐ろしい発言をしたと同時に、カシャッと音がした。

 永田さんが手の甲で顔を拭いながら「ムッ」と恭介を睨む。

 恭介がスマホで写真を撮ったのだ。


「飛島君。撮ったでしょ!」

「いやぁ、何のことかなぁ」


 見え透いたとぼけ方をする恭介に永田さんが「絶対に撮ったね」と詰め寄る。


 恭介は永田さんに背を見せ、「うわぁ、変態に襲われるぅ」と逃げ惑う。


「どっちが変態よ。スマホを渡しなさい」

「何も撮れてないって」

「じゃあ、見せなさいよ」

「何で見せないといけないのさ」

「やっぱり撮ったんじゃん」


 ソファに倒れこんでスマホを抱え込む恭介の背後から永田さんが手を差し込む。


 その時、また、凛太郎のスマホが震えた。

 開くと、永田さんの驚いた顔に幾つかビーズのような白い球が点々と飛び散っている画像がそこにあった。


「分かった、分かった。消しますよ」


 消せばいいんでしょ、と恭介はスマホの画面を永田さんに見せながら、二人で画像消去の操作を行っていた。


「もう。油断も隙もありゃしない」


 永田さんが「あっつい」と手で顔を扇いでいるその向こうから、恭介が凛太郎に向かってピースサインを作った。

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