第53話 ダンサー(その1)

「遅いなぁ、恭介君」

「集中しないと負けますよ」


 歩美がからかうように盤上を指差す。

 この一局は今さらどれだけ集中しても挽回が難しいところまで凛太郎が追いつめられていて、それを承知で歩美は言っているのだ。「でも、本当にどうしたんでしょうね」


 恭介は教室に忘れ物をしたと言って部室を出て行ってから、なかなか帰ってこない。

 教室までの往復なら五分もかからないが、もう二十分ほど経っている。


 と思っていたら、部室のドアが開いた。


「いってぇ」


 恭介が右足を引きずりながら入ってきた。「いってぇよう」


「どうしたの?」


 凛太郎と歩美は恭介に駆け寄った。


 恭介は近くの椅子に腰かけて、右足のズボンを膝までまくった。

 脛のあたりを擦りむいていて、そこからダラッと血が流れている。


「うわっ」


 凛太郎は恭介の足を見て顔をしかめた。

 あまり血は得意ではない。


「階段でこけちゃって」


 歩美が制服のポケットからティッシュを取り出して、傷口を押さえた。


「ありがとう」

「随分派手にこけたんですね」

「教室で先生に会っちゃってさ。教材運ぶの手伝わされて。それで、部室に帰ってくるのに小走りで階段上がってたら踏み外して、これ」

「保健室に行きましょうか」

「保健の先生いるかな」

「いなくても、ちょっと消毒して、ガーゼで覆うぐらいなら私がしてあげますよ」

「そんなぁ。悪いよ」

「何、言ってるんですか。ほっといたらズボンと靴下が血だらけになりますよ」


 歩美に促されて、恭介は渋々といった顔で立ち上がった。

 チラッと凛太郎を見たその表情は、女子に処置してもらうことの恥かしさと嬉しさが複雑に入り混じっているようだった。


 保健室には誰もいなかった。

 保健の先生は昨年度末に定年で一度退職し、今は非常勤として雇用されているおばさんで、正規職員ではないからか、あまり保健室にいないという評判だ。


 西日が差し込む人気のない保健室はうら寂しい感じがした。


「不用心だな」

「盗むものなんて何もないんだろ」


 恭介は痛そうに顔をしかめながらベッドに座った。「鍵が閉まってたら、こういう時に困るし」


「誰もいない保健室ってちょっとエッチぃ感じがして、何かいいですよね」


 歩美に「エッチぃ感じ」と言われると気恥かしくて何も反応できず、意味もなく自分の手を見下ろす。


 歩美は壁際の引き出しから消毒液とガーゼ、医療用のテープを取り出し、まずまずの手際で治療を行った。


「ありがとう、遠藤さん。汚い足、触らせちゃってごめん」


 恭介が頬を赤らめつつ小声で礼を言う。


「つまんないことで謝らないでくださいよ」


 歩美はあっけらかんとしたものだ。手を洗い、片づけをして、ふと窓を見つめる。「あそこって何でしたっけ?」


 歩美の視線は窓の外の小高い林に向けられていた。

 十段ほどの石階段があり、その先は石畳が林の奥に続いている。

 木々の間から木造の建物が垣間見える。

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