第50話 失恋話の続き

 凛太郎は恭介と寡黙に将棋を指していた。

 ざわざわと落ち着かない感情を必死に押し殺して、静かに座っている。

 湧き立つウキウキを憂鬱が抑え込み、混じり合って、何色か分からない落ち着かない感情。


 なぜなら、それは雨が降っているから。


 天気が悪いと運動部は休みになる。

 となると、永田さんがこの部室にやってくる可能性も高くなる。

 先週の雨が降った日も、永田さんの降臨があった。

 我らのアイドルはこの地味で陰気な部室を、そして凛太郎たちの気持ちを一瞬にして華やかにする。

 しかし、永田さんと将棋を指すのは、ひどく緊張するし、負けてばかりで、将棋部として立つ瀬がない。

 そして何より歩美が嫉妬して、後でネチネチ絡んでくるのが面倒だった。

 きっと恭介も同じ気持ちで、だからこそ最近にしては珍しく恭介の方から「今日は俺とやろうぜ」と誘ってきた。

 従って、今、歩美は一人で詰め将棋を解いている。

 が、先ほどからチラチラとドアの方ばかり気にしていて、一問も解けていない。


 ドアがノックされ、凛太郎と恭介は互いに鈍くギラつく視線を絡め合う。


 そして、やはり永田さんが現れた。


「久美ちゃん!」


 歩美が勢い良く立ち上がり、嬉しそうに永田さんに駆け寄っていく。


 それを見た凛太郎は恭介と無言で頷き合った。

 これでとりあえず、歩美に恨まれることはない……と安心した矢先だった。


「ちょっと、やめてっ!」


 声に明らかに怒りが込められていて、ビクッとする。

 永田さんの声に間違いないが、いつも穏やかな永田さんが、まさか、と確認せずにはいられない。


 歩美が永田さんの正面で青ざめた表情で立ち尽くしている。


「く、久美ちゃん?」


 凛太郎は慌てて視線を将棋盤に落とした。

 そして石化する。

 私は石です。

 邪魔はしませんし、何も聞いていません。

 存在しないものと思ってください。


「歩美。どうしていつも私の胸を触るの?ほんと、いつも、いつも。しかも今、揉んだでしょ?女同士だからって、おかしいよ」


「ごめん。私……」


「帰る!」


 永田さんが怒ったところを初めて見た。

 そして、今後もないように思う。

 この場で起きた現実がなかなか受け入れられない。


 歩美は永田さんが出て行ったドアの前でしばらく呆然と立ち尽くしたままだったが、やがて項垂れ気味に戻ってきた。

 置いてあった鞄を手にすると、「私も、帰ります」と小声でぼそぼそ言って目を合わせることなく背中を向けた。


「ある時、俺の父親が再婚してさ」


 突然、恭介が選手宣誓をするかのように大きな声で語り出した。


 凛太郎は驚いて恭介を見た。


 歩美の足音も止まった。


 恭介は熟した桃のように顔を赤らめながらも、歩美の背中に話しかけた。


「その再婚相手がすっごく美人で。俺、その人に一目ぼれしちゃったんだ」


 歩美が俯けていた顔を少しだけ恭介の方に向けた。


「それは、……辛いですね」

「いやいや、そんなのは全然。俺が辛いのは、その人が家に男を連れ込んで浮気してるのを知っちゃったこと」

「えぇ?」

 驚きの顔をこちらに向けた歩美が眉を八の字にする。「それは、何と言ったらいいか……」


「もう立ち直ったから気にしないで」

 言葉とは裏腹に恭介は苦悶の表情だ。

 立ち直りはしたが、傷口は乾いてはおらず、痛みは残っているのだろう。「だけど、一時期は本当に辛かった。自分の気持ちは押し殺さないといけないし、父親のためには何をすべきなのか、その人のためにはどうすべきなのか……。何が正解なのか、さっぱり分からない。その人と一緒に家にいるのが苦痛だった。地獄だった。正直、もう死にたいとさえ思ったよ。その方が楽になれるって。……世の中にはそういう失恋もあるってことさ」


「恭介君……」


 この瞬間ほど恭介のことが格好良く見えたときはない。


 四つを三つに絞った。自分が取りえる行動について、恭介はそう言っていた。

 あの時選択肢から外した一つが、死ぬことだったのかもしれない。

 そこまで真剣に彼女のことを好きだったのか。

 そう思ったとき、凛太郎は恭介の心の傷を癒すために、もっと何かできることがあったのではないかと悔やんだ。

 下手をしたら、一生の友をあの時失ってしまっていたかもしれなかったと思うと、今さらながら恐怖で体が震えてくる。


 逆に歩美の目には力が戻ってきた。

 歩美はこの手の話が大好きなようだ。


「それっていつのことですか?最近?」

「最近だよ。そして、一昨日、その人は家を出て行った」

「え?そうなの?」


 出て行ったことは凛太郎も初めて聞いた。

 恭介が父親に告げ口したからか。


「駆け落ちみたいなもんかな。俺が家に帰ったら、彼女の荷物が綺麗に消えてて。親父に電話したら、びっくりして帰ってきたよ。親父はその人に何度も電話したけど、出てくれなくって。そしてLINEでメッセージが来た。ごめんなさい、探さないでください、ってさ」

「今どきはそれもLINEで言っちゃうんですね」


 歩美は念願の恭介の失恋話を聞けて満足したのか、少し晴れやかに「私、久美ちゃんに謝ってきます」と帰って行った。


 歩美が部室から出て行ったのを確認して、恭介は「この話には続きがあってさ」と赤みのひいた顔で凛太郎に話しかけてきた。


「親父が、彼女の失踪に何か心当たりがあるかって俺に訊くから、大学生みたいな感じの男と会ってるの見たことあるって教えてやったんだ。そしたら、親父、どうしたと思う?」

「怒って物に当たる、とか」

「逆だよ。いきなり、『よっしゃあ』ってガッツポーズ。それからどこかの女に電話かけて、そのままふらっと出て行っちゃった。昨日の夜にようやく帰ってきたよ」

「なんと……」

「昨日、親父が『世界に女は一人じゃないんだぞ』って言いだしてさ。この人、怖って思ったんだけど、同時に、すげぇとも思ったよ。何か妙に納得しちゃったんだよね。この人の血を継いでるんだなと思ったら、急に気持ちが吹っ切れたわ。とにかく金なんだな。見た目は俺とそっくりなのに、あの人、女に困ってない感じなんだもん。きっと金が女を引き寄せるんだよ」


 そう言って朗らかに笑う恭介を見て、凛太郎は恋愛は人を変えるのだと空恐ろしくなった。

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