第49話 お腹の痛み

 歩美の調子が悪い。

 将棋の組立てが冴えない。

 行き当たりばったりの手を指していて、どんどん戦況を悪くし、暗い表情がさらに暗くなる。

 そして、うーん、と唸った。


「体調悪いの?」


 凛太郎もさすがに心配になって声をかけた。


 普段は眼球が零れ落ちそうなぐらいに目を大きく見開いて盤面に集中する歩美が今日はどうも散漫な様子を見せる。

 将棋に集中力は欠かせない。

 そして集中力をそぐ要因として凛太郎が最初に思いつくのは体調不良だ。


 苛立ちもあった。

 と同時に、申し訳なさも募った。

 先日は逆の立場だった。

 理由も知らせず学校を休んだ恭介のことが気になって、歩美との対局に身が入らなかった時のことだ。

 今になって分かる。

 あの時、きっと歩美は、明らかに気が乗っていない、へなちょこ将棋の凛太郎に付き合わせられていることを内心では憤っていたことだろう。


「今日って飛島先輩はどうされたんですか?」


「もうすぐ来ると思うよ。何か職員室の先生に提出するものがあるって言ってた」


 盤面に虚ろな視線を落としながら、歩美が「そうですか」とぼそっと言う。


「私、今日、生理なんですよね」


 バサッと胸を袈裟懸けに斬られた気分だった。

 痛みの走った胸にそっと手を当て、なるほど、そうかと凛太郎は思った。

 迂闊だった。

 高校生女子の体調不良と言えば、まずそれを疑うのがセオリーなのだ。


 生理。


 凛太郎だって、その言葉の意味は知っている。

 だけど、女子から、自分が生理中だと告白された経験もなければ、生理中であることを打ち明けてきた女子に掛ける言葉も持ち合わせてはいない。

 生理というワードはエロの範疇はんちゅうには入れてはいないが、そのすぐ近くに存在する性的なもので、凛太郎としては、その扱いには非常に気を遣う。


 しかし、狭い部室に二人きりで、自分から体調について訊ねておいて、無視するわけにもいかない状況だ。


「だ、だ、……大丈夫?」


 凛太郎は頑張って、最も当り障りのないと思われる言葉を導き出し、発した。


 歩美はもう何も考えたくないという感じで右手で机に頬杖をつき、左手を腹に当てた。


「何だか今回は特別お腹が痛いんですよぉ」


「大丈夫?」


 凛太郎は緊張感に背筋を寒くしながらも、同じ言葉を繰り返した。

 盤上は明らかに凛太郎が優勢なのだが、急に崖っぷちに追い込まれたような気分になる。

 突然、生理をテーマにして女子と一対一で言葉のやり取りをする状況に陥れられるのは恐怖でしかない。

 「大丈夫?」ばかり繰り返す自分の語彙力のなさにも嫌気が差す。

 でも、おかしな返し方をすると、セクハラと言われかねないし。


「生理になるたびに思うんですけどね」


「うん」


「生理痛って女子にしかないじゃないですか」


「そ、そうだね」


「だから、自分が女子だっていうことを認識するわけですよ」


「えっと……」


 凛太郎は困惑した。

 歩美の言いたいことが分からない。

 汗がこめかみから顎に伝う。


「そこに違和感があるんですよね」


「違和感?」


「私、久美ちゃんのこと好きじゃないですか」


 歩美の理論の展開があっちこっちに飛んで行って、目が回りそうだ。


「そうだね」


「それって男子目線って言って良いのか分からないんですけど、少なくとも同性目線ではないというか。……分かります?」


 問われて、凛太郎は思わず「んー」と唸った。

 何となく分かるけれど、人を好きになったことがあるのか自分でも分からないから、実際のところは歩美の言っていることを正確には理解できていないのだろう。


「分かるような、分からないような」


「人を好きって色んな形があると思うんですけど、私、久美ちゃんを友達とか、幼馴染のお姉ちゃんとは思ってないんです。片思いしている感覚なんです。初めての人は久美ちゃんがいいんです。これって恋愛感情だと思うんです」


「はぁ」


 やばい。

 生理から恋愛へ。

 未知の分野から苦手な領域へ話題が展開している。

 歩美が繰り広げる世界に凛太郎はもはや息継ぎすらしんどくなってくる。


「私自身がつまらない常識にはまり込んでいると言われれば、それまでなんですけど、女子が女子に恋愛って、やっぱりマイノリティじゃないですか。事例がまだまだ世間に溢れていないって言うか。だから、ないものねだりなんですけど、自分が男だったら、とか、この世に性別なんてなかったら楽なのになって、思うわけですよ。切に」


「なるほど」


 それしか言えない。


 かなり深い話だ。

 しかし、男子と女子の恋愛にさえ足を踏み入れたことのない凛太郎にとって、歩美の語りは宇宙の果てや地球の奥底の話題に似て、想像することも難しい。


「そこへこの生理痛。お前は女なんだって、女であることを受け容れろって天からギュウギュウと押し付けられている感じがするんですよね。もっと言えば、女子であることに否定的で、自然の摂理に反抗的な私を懲らしめるための神様からの罰としての痛みなんじゃないかって気がしてくるんです」


「ムムム」


 もう本当に何と言って良いかwakaranai。


 すると歩美がフフッと笑った。


「先輩。今日はお腹痛いんで、これで失礼していいですか?」


「ああ。うん。もちろん」


「ごめんなさい。変な話につき合わせちゃって、困らせちゃいましたね」

 歩美は立ち上がって、頭を下げた。「でも、先輩に聞いてもらえて、何だか少しすっきりしました。私、この解決のない問題にずっと一人で悶々としてたのかもしれません」


 歩美はリュックを背負ってドアの方へ向かった。


 その時、ドアが開いて恭介が入ってきた。


「あれ?もう帰るの?」


「すいません。今日は生理痛がひどくって」


 歩美は恭介に軽く会釈をして出て行った。


 恭介はその場に数秒立ちつくし、凛太郎に顔を向けて「うわぁ」と言った。

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