第48話 妊娠したがりJK(その2)
振り返ると、歩美がホラー映画で出てくるゾンビのような顔で部屋に入ってきた。
血の気はないが、病的に何か一つのことに固執しているような、そんな表情。
重い足取りで近づいてくる彼女は、恭介と凛太郎が向かい合って挟んでいる机の横に椅子を持ってきて、ドスンと腰を下ろした。
「はぁー」
歩美は部室全体の空気を負の感情で汚染するような盛大なため息をつく。
恭介は眉間の皺と目の動きだけで歩美の行動の意図を訊ねてくるが、凛太郎にも思い当たることは何もなく、小首をかしげるしかない。
「どうかした?今日は水曜日だけど、そろばん塾はいいの?」
将棋盤にぼんやり目を落としている歩美に、二人を代表して恭介が問いかけた。
「奥川先輩」
「僕?」
凛太郎は名前を呼ばれて驚いた。
歩美にショックを与えるようなことをした自覚はないのだが。
「久美ちゃんのこと、断ったんですね」
「は?」
恭介が目を見開き、そのまま凛太郎に顔を向ける。
「え?」
何のことか、さっぱり分からない。
大体、歩美はいつも言葉が足りなくて、しかも、言葉のチョイスがおかしいから、その発言が誤解を生むことが良くある。
「昨日、久美ちゃんが奥川君に将棋するの断られたってLINEで嘆いてました」
ああ、それか。
「ちょっと、用事があってね」
チラッと恭介を見ると、恭介は、ごめん、という感じの酸っぱい表情になる。
「用事、ですか」
歩美はどことなく納得していない様子だ。「ならいいんですけど。私のために気を遣ってくださったのなら申し訳なかったなと思って」
面倒くさい奴だ。
将棋をしたらしたで怒るし、断ったら断ったで、やっぱり不機嫌だし。
これが恋というもののなせるわざか。
だとしたら、やっぱり恋は平穏な人生を送るには邪魔なものということになる。
それにしても、歩美はそんなことを恭介がいる前で言ってしまって良いのだろうか。
先日、永田さんのことを好きだということを他言しないよう凛太郎に口止めしたのは何だったのか。
「何?気を遣うって」
案の定、恭介が食いついた。
「私、久美ちゃんのこと、好きなんです。だから、誰にも久美ちゃんを取られたくないんです」
歩美の目は真剣だ。「奥川先輩にも、飛島先輩にも」
好きな人の存在を知られることより、その好きな人を誰かに奪われることの方を恐れての告白ということか。
だとしたら、まさに杞憂だが。
「自分で言うのも何だけどさ、僕たちをライバル視する必要は全くないと思うよ」
凛太郎の言葉に恭介も苦笑いで頷く。
「遠藤さんは永田さんのことを、異性として好きってこと?」
「異性とか同性とか分からないんです。だけど、久美ちゃんと話してると、胸がキュンキュンしちゃって」
歩美はブレザーの胸のあたりをギュッと握りしめる。「あ、今、お前に胸なんかないだろって思ったでしょ」
胸なんかない。
女子からそんな言葉を聞かされるとは思いもよらず、凛太郎は反射的に俯いたが、「思ってても言えないよ」と恭介はあっけらかんと笑った。
そう言われて、歩美もフフッと笑うだけだ。
二人の自然なやり取りに、凛太郎は「おぉ!」と声を上げたいぐらいに感動を覚えた。
女子と下ネタすれすれの会話を、こんないやらしさのない感じで実行するとは。
恭介はこの数か月で歩美に対する適切な距離感を築き上げたようだ。
「気が付いたら、いつも久美ちゃんのこと考えてるんです」
「なるほど。それはもう恋だね」
恭介が顎をさすりながら言う。
「何だか、酸いも甘いも嚙み分ける大人のようなことを言うね」
凛太郎は恭介に対して感心と茶化したい気持ちとが入り混じっている。
「俺には分かるんだよ」
恭介は急に、「こないだ失恋したばかりだからねー」と泣き真似で机に突っ伏した。
「そうなんですか?」
机に伏せたまま、うんうんと頷く恭介を「よしよし」と慰めるように、その後頭部に歩美は手を当てた。「それは辛かったですね」
恭介が歩美をどう評価しているか分からないが、女子の「よしよし」はそれなりに嬉しいのではないだろうか。
起こした恭介の顔は、やはり少し赤い。
「遠藤さんは、男には興味がないの?それとも永田さんが特別なの?」
凛太郎は恭介の質問にますます驚いた。
凛太郎も気になっていたことだが、それを直接訊ねるなんて思いもよらなかった。
我々は恋愛的な領域について他者と会話をできない類の人間だ。
第一に口にするのが恥ずかしいし、それに、恋愛に足を踏み入れた経験がなく、想像だけでしか論じられない人間だからだ。
しかし、今の恭介は自然に問いかけていた。
失恋の経験が彼を成長させたのか。
それとも歩美の発言から勇気を得たのか。
「久美ちゃんが特別なんでしょうね。小さい頃は好きな男の子もいましたから、私、両刀使いなんだと思います」
歩美の口調から急に重さが消えた。
やはり女子は恋愛話が好物だ。
しかし、「両刀使い」というなかなか扱いづらいワードが出てきて、凛太郎は身の置き場がない気持ちになる。
「ってことは、こないだの……」
恭介はすごいことに気が付いたという顔をして、凛太郎を見てくる。
恭介は歩美の「すりすり」を思い出したに違いない。
つい先ほどまで、あの「すりすり」は女性同士のスキンシップと理解していただろう。
しかし、歩美の告白により「すりすり」が官能的な意味合いを持つことに恭介は思い至ってしまったのだ。
「何です?」
「あ、いや、あはっ。ああ、何でもない」
さすがにそこに足を踏み入れることはできなかったようだ。
恭介の顔がにやけたり真顔になったり忙しい。「じゃあさ、遠藤さんは、子ども欲しいとか思う?早く結婚したいって願望、ある?」
恭介は大きく成長した姿を凛太郎に見せつけた。
同性に恋をする歩美から自然な流れで結婚観や人生観を引き出そうとしている。
凛太郎には恭介が眩しく見えた。
「ないですね。だって、今は久美ちゃん以外、考えられないですもん。だけど、久美ちゃんとセックスしても、お互い、絶対に妊娠しないですからね」
歩美という生き物は謎だらけだ。
歩美から破壊力の権化のような単語を聞いて、さすがの恭介も即座に沈黙した。
彼女は本当に何を言い出すか全く読めない。歩美の奔放さに、凛太郎は恐怖すら感じた。「で。飛島先輩の失恋ってどんな感じのやつですか?」
「それは……遠藤さんが失恋したら教えてあげるよ」
千日手。
その後も歩美は恭介の失恋の状況を執拗に追求したが、恭介は最後まで「遠藤さんが失恋したら」で、いなし切った。
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