第46話 女子の涙は世界を動かす ~脱衣所にて
恭介の家からの帰り道も雨だった。
しとしとと降る雨が傘を優しく叩く。
恭介に会えたことの安心感からか、凛太郎は心穏やかに歩いた。
が、それはある時点で突然に終了し、途端に足の裏から火にあぶられているような落ち着かない気持ちにさせられた。
それは麻実を見つけたからだ。
何かに激しく抵抗するような、泣き叫ぶような女性の声を聞いた気がした。
顔を上げると、黒い傘を差す男性の腕から逃れるように見覚えのあるグレーの制服を着た女性が身を捩っているのが見えた。
その女性が麻実によく似ていた。
彼女は雨の中、身を抱くようにして走り去った。
あれは、本当に麻実だったろうか。
凛太郎は見間違いだと強いて思うようにして、傘で自分の視線を塞ぎ、足元だけを見つめて先に急いだ。
あれは麻実ではないだろう。
あんな潤んだ声を上げて、雨の中を逃げるように走る女性が、あの気が強くて何事にも物怖じしない姉のはずがない。
努めてそう思った。
そっと玄関を開けると、いきなり、タオルで髪を拭いながら廊下に出てきた麻実と目が合った。
キャミソールにショートパンツ姿で、惜しげもなく晒された白い肌が眩しい。
「あれ、今日は早いね」
「ああ。うん」
靴を脱ごうとしたら、ぬちゃっと音が響いて、麻実と目が合う。
麻実はすぐに浴室に入り、「ほい」とタオルを投げてくれた。
靴下を脱ぎ、タオルで足を拭いて家に上がる。
「シャワー浴びたら?私も雨に降られて、今、浴びたところ」
凛太郎は麻実の勧めに従って、着替えを持って浴室に入った。
熱いシャワーが雨で冷えた体に気持ち良い。
全身にお湯の温もりを感じながら、凛太郎は麻実のことを考えた。
麻実の様子に取り乱した感じはなかった。
いつもの麻実だ。
やはり、先ほど道で見かけたのは麻実ではなかったのだろう。
あるいは、あれは麻実だったとしても、麻実にとっては大したことではなかったのかもしれない。
シャワーを済ませ、部屋着で廊下に出たところで「うわっ」と声を上げて驚いた。
ドアのすぐ横で麻実が壁にもたれて立っているのだ。
「な、何?」
「凛ちゃん」
凛太郎を見上げる麻実の目にみるみる涙が浮かんできた。
そして麻実は凛太郎の胸に飛び込むように、縋り付いてきた。
麻実の勢いのまま、凛太郎は脱衣室に押し戻され、ドスンと壁に背中を押し付けられた。
「どうしたの?」
問いかけても、麻実は肩を震わせて、ひっくひっくとしゃくるだけだ。
「ギュッてして」
「えぇ?」
姉とは言え、女子が自分の胸で泣いていることですら、どう取り扱って良いのか分からないのに、その体をギュッとするなんてことを求められたら、脳が一気に熱を持って思考停止に陥る。
「お願い」
泣き声の麻実は、ねだるように凛太郎の胸に頬を擦り付け、上体を一層強く押しつけてくる。「ねぇ。凛ちゃん」
女子の涙は世界を動かす。
凛太郎はそっと麻実の背中に手をあてた。
麻実が泣いている姿を見たことはない。
父親がよそに女を作って、家を出て行くとき、小学校に入学したての凛太郎はピーピー泣いた。
しかし、その手をしっかり握ってくれていた麻実の目には、怒りは滲んでいたかもしれないが、涙はなかった。
母親も床に座り込んでめそめそ泣いていたが、麻実は今度は母親の頭を胸に抱きしめた。
もう父親の顔は覚えていないが、その時の麻実の凛とした幼顔はしっかりと覚えている。
その麻実が泣いた。
あんなに強かった姉が何かに怯え、縋り付いてきた。
だとしたら、弟にできることは一つだけだった。
「もっと強く」
「こう?」
凛太郎は腕に力を込めた。
「もっと」
「これぐらい?」
「……ちょっと、強い」
「あ、ごめん」
凛太郎は慌てて力を抜き、もう一度ゆっくり麻実の体を腕で締め付ける。
麻実は「そう。それそれ」と心地良さそうに息を漏らした。
これで良いようだ。
自分の腕から、華奢な麻実の皮膚の感触が伝わってくる。
その柔らかさは、うっとりするほどの気持ち良さで、一方でそのしっかりとした弾力は女性のしなやかな身体のラインを想像させる。
そう考えた凛太郎は壁の小さなくすみに意識を振った。
自分の下半身に微かな反応があったからだ。
気を抜くとオスの本能が鎌首をもたげそうだ。
腕の中にいるのは姉だというのに。
「何があったの?」
壁のくすみでは限界があって、凛太郎は会話で気を紛らわすことに切り替えた。
他に姉から女を感じないようにする術が見当たらなかった。
恭介の家からの帰宅途中に見かけたのが麻実だとすると、麻実の腕を掴んでいた男は誰だったのか。
そして、その男と何があって、何故泣いているのか。
その男を探し出して仕返しをするなどという大それた考えはないが、気丈な姉の弱音の聞き役ぐらいには、なってあげたい。
一度大きく息を吸った麻実は凛太郎の腕の中でゆっくり顔を起こした。
潤んだ瞳で見上げる麻実は微笑んでいるようだった。
「どう?」
麻実の瞳がいたずら猫のような輝きを帯びる。
「何が?」
「泣いてる可愛い女子高生を腕に抱いて。ときめいたでしょ?」
途端に凛太郎の腕から力が抜ける。騙されたという思いが毒となって全身をしびれさせる。「凛ちゃんにはたまにはこういう経験もさせてあげないとね」
麻実は猫のようにスルスルと凛太郎の身体から離れ、音もなく脱衣室から去って行った。
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