第44話 こんな失恋あるんだな ~恭介の部屋にて

「えっと、あの……」


 女性が何か言いかけたとき、恭介が凛太郎の腕を掴んだ。


「俺の部屋に行こう」


 恭介の言葉がごつごつと硬い。

 恭介は凛太郎の腕を掴み、強引に廊下の方へ引っ張った。

 されるがままの凛太郎は女性の横を通り過ぎるとき、軽くお辞儀をするのが精いっぱいだった。


 恭介の部屋は凛太郎の部屋の倍ぐらい広い。

 入るとまずテレビが目に入る。

 凛太郎の家のものよりも明らかに大きい。

 勉強机にはパソコンが置いてある。

 部屋の隅には大きな天体望遠鏡もあった。


「リッチだね」


 思わず口にしていた。


「そう?」


 恭介がベッド脇の箱からコーラのペットボトルを取り出し、凛太郎に向かって一本放り投げる。

 自分はそのまま柔らかそうな広いベッドにふわりと座って、ごくごくとコーラを飲んだ。


「それ、冷蔵庫?」


「そだよ。冬はホットにもできる」


「恭介君の家って……お金持ちだね」


「金があるだけだよ。あとは何もない」


 視線をうつろに床に落とす恭介はやはり変だ。

 先ほどの女性が現れてから急に言動がつっけんどんになった。


「お金があるだけいいじゃん」


 凛太郎は勉強机の椅子を引いて座った。

 驚くほどリクライニングが利いて、そのまま転んでしまいそうで、思わず姿勢を直す。

 リュックからタブレットを取り出し、勉強机に置いた。


「気づいた?」


 恭介はコーラを飲んで、苦そうに顔をしかめる。


「……うん」


 何を訊かれたかはすぐに分かったが、返事をするには時間がかかった。

 どうにも事情が複雑そうだし、人生経験の乏しい自分には、このことについて何が言えるのかもわからない。


 タブレットの動画に映っていた場所は先ほどのリビングだった。

 そして、動画の中で男性といちゃついていたのは、先ほど会った恭介の義理の母親だ。大学生風の男性が恭介の父親であるはずがない。

 つまり、恭介は不倫現場を盗撮したのだろう。


 恭介はペットボトルを枕元に置き、「あーあ」とベッドに仰向けに倒れた。


「こんな失恋あるんだな」


「え?」


 失恋?


「たろちゃんって、人を好きになったことある?」


「いや……」


 どうかな、とあいまいに笑った。

 これまで、ほんのり好意を抱いた人はいたと思うが、そのことに気づいたら自分で自分の気持ちを制御していたような気がする。

 きっと、「好きになった」と胸を張って言えるような経験はしていないだろう。


「今思えば、俺、ちゃんと人を好きになったの、今回が初めてなんだ。今までも好きになったような気がしてたことはあったけど、今回の失恋で、今までのは本当の好きじゃなかったんだって分かった」


「そういうもんかな」


 童貞と経験者の間には大きな溝があるが、誰かを好きになったことがあるかないかの違いも人生において決定的な差があると思う。

 失恋は辛いことだろうと想像するが、誰かを好きにならなければ失恋もできない。

 知らないうちに恭介は凛太郎のずっとずっと先に行ってしまった。


「今まで通りに気持ちをセーブできれば良かったんだけどさ」


「できなかったの?」


 凛太郎にできていたのだから、恭介にもできるはずだろう。


「できないよ。毎日会うんだよ。朝起きたら、そこにいるんだから。家に帰ってきたら出迎えてくれるし、晩御飯を向かい合って食べて……。同級生なら、見ないようにとか、喋らないように、とかできるけど。一緒に一つ屋根の下に暮らしてたら、気持ちをセーブするいとまがない」


 凛太郎はコップをイメージした。

 気持ちを入れるコップだ。

 ある異性に対しての好意がコップにどんどん注がれると、意識的にコップに蓋をする。

 好意が溢れそうになる前に。

 溢れたら、その先に何があるのか分からないから。

 怖いから。

 だけど、きっと恭介は今回コップの蓋を何度も閉めようとしては、毎日外されたのだろう。

 見ないようにも、喋らないようにもできず、抗いようもなくコップは気持ちで満ち、そして溢れた。

 恭介の心は彼女への好意で侵食された。


「なるほどなぁ」


「あー、つれえよぉ。地獄だよぅ」


 恭介は寝返りを打ってうつ伏せになった。


「地獄?」


「一つ屋根の下で一緒に暮らすようになった義理の母に一目ぼれしちゃって、その人がすぐそこで見ず知らずの……どこかの男と三丸してたんだもん。これからどうすりゃいいんだよ」


 恭介は足をバタバタさせてベッドに打ち付ける。


 やはりそういうことか。

 予想していた展開だったが、掛ける言葉がなかなか見当たらない。


 その時、ドアがノックされた。

 先ほどの義母がドアの向こうから恭介を呼ぶ。

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