第33話 じゃんけん童貞(その4)
凛太郎は近づいてくる永田さんを、スクリーンに映し出された映像を目で追うように現実感なく黙って見つめるだけだった。
永田さんはやがて凛太郎と恭介が挟んでいる将棋盤の横にまでやってきた。
ふわっと漂う空気の流れが、日差しを浴びた柑橘系の果物のような淡い甘い匂いを運んできて、思わずばれないように静かに鼻から吸い込む。
肺の奥に、そしてそこから血の流れに乗って全身に極小の永田さんが行きわたるイメージが思い浮かぶ。
そして、自分は変態なのか、と凛太郎は静かに自己嫌悪に陥った。
天使のような神々しさで永田さんは将棋盤を覗き込み、右頬にかかる髪を耳に掻き上げ、凛太郎を、そして恭介を交互に見た。
「な、何でしょうか?」
恭介の声は先ほどよりもさらにパサパサだ。
「どっちが強いの?」
「え?」
「将棋よ。どっちが強いの?飛島君?それとも……」
永田さんが、恭介の名前を知っているとは思わなかった。
「奥川君?」と不意に見つめられて、凛太郎はとっさに顔を伏せた。
永田さんが天使過ぎて、この至近距離でまともに目と目をぶつけたら、瞬間的に頭の線がブチッと切れて死んでしまう。
その口から名前を呼ばれただけで、顔は火が出るぐらいに熱く、痛いぐらいに心臓がドキドキしている。
もう、ダメだ。
まともに息もできない。
「あー、それは、たろちゃんです。奥川君です」
さらに顔が赤くなるのが分かる。
やばい。
自分の何かのメーターがレッドゾーンを示している。
凛太郎は恭介に向かって懸命に「ダメ、ダメ」という感じでブルブルと顔を横に振ったが、恭介は少し緊張に顔を引きつらせながらも、意地悪そうに笑うだけだ。
たろちゃん?
永田さんがそう呟いてクスッと笑う。
「奥川君ね。ちょっと、相手してもらっていい?」
相手してもらっていい?
相手してもらっていい?
相手してもらっていい?
永田さんの言葉が凛太郎の頭の中でリフレインする。
「どうぞ、どうぞ」
恭介が勝手に許可をして、自分の椅子を永田さんに譲る。
永田さんは恭介に「ごめんね」と軽い調子で謝って、無造作に凛太郎の向い側に腰を下ろした。
その拍子にまたふわっと永田さんの匂いの波が寄せてくる。
あの永田さんと膝がぶつかりそうな距離で対座している。
凛太郎は気が遠くなりそうだった。
歩美とは慣れたのだが、女子との免疫に関して言えば、歩美の存在は何の役にも立っていなかったことを痛感する。
本当にこれから永田さんと一局打つことになるのか。
今日というミーテイングの日がこんな展開になるとは予想だにできなかった。
太ももの上に置いた手が震える。
その手は汗でビタビタだ。
永田さんは駒を並べ直し、「それじゃあ」と言った。
「じゃんけん、ほい」
永田さんの掛け声に誘われ、反射的にグーを出していた。
勝ったのは永田さんだった。
「私が先手ね」と言いながら、永田さんが飛車先の歩を上げるのを見ながら、凛太郎は、自分は三丸どころか、じゃんけんすら童貞だったかもしれないと思った。
そして、今この瞬間にじゃんけん童貞を捨てたのだ。
童貞というのは、こんな風にある日突然、事故に巻き込まれるように捨てることになるものなのかもしれない。
「たろちゃんの番だぞ」
恭介に言われて、慌てて手を進める。
しかし、断続的に永田さんの匂いの波が押し寄せてきて、とてもじゃないが将棋に集中できない。
マンガでは色っぽい女性を見て鼻血を出すシーンが良くあるが、自分が今まさにそういう状況と紙一重のところに置かれていることを凛太郎は実感していた。
ここで鼻血なんか出したら、一生のトラウマになりそうだけれど。
勝負は終始永田さんの圧倒的優勢のまま決着がついた。
まさに蛇ににらまれた蛙状態。
なすすべなしとはこのことだった。
将棋部の名が廃る、なんて悔しさも感じないぐらいに凛太郎は呆けていた。
冗談じゃなく、熱が出ているかもしれない。
「私も将棋好きなんだよね。近所のお爺ちゃんが将棋教室やってて、中学三年まで、そこに通ってたの。歩美も一緒に」
「だから、お強いんですね」
恭介が少しこなれた感じで永田さんと会話をしているのが癪に障る。
「飛島君」
「はい。何でしょうか?」
「敬語、やめてよ。私たち、クラスメイトだよ。普通に喋ろ」
「あ、はい。いや、うん」
永田さんに叱られた感じで、慌てている恭介が哀れだった。
「奥川君」
「はい!」
キランとした永田さんの目に射すくめられて、凛太郎は背筋をビシッと伸ばす。
「奥川君は何でもいいから、もう少し喋ってよ。私のこと、嫌い?」
私のこと、嫌い?
私のこと、嫌い?
私のこと、嫌い?
「いえ、そんな……」
凛太郎は顔を真っ赤にして首をブルブル横に振った。
天使を嫌いなはずがない。
「雨の日は部活ないから、またお邪魔するね。それまでに、もう少し実力つけといて」
永田さんは微笑みを残して去って行った。
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