第18話 姉モノ(その1)

「やっぱ、坂上さん、可愛いわ」


 恭介が雑誌の中のグラビア写真を見て感嘆の声を上げる。

 「ねえ?たろちゃん。ほら、これ見てよ、これ、これ」と肘でぐいぐい押してくる。


 凛太郎は興奮気味の恭介の声の大きさに居たたまれない。


 ここはこの街で一番大きな、カフェも併設されている人気の書店だ。

 恭介が手にしているのは将棋の月刊雑誌「将棋の道」。

 そこには、最近、才色兼備と評されてバラエティ番組にも出演するようになった若手女流棋士・坂上女流初段のエッセイとオフショットが掲載されている。

 「可愛すぎる女流棋士」というタイトルで、パーカーを羽織った状態ではあるが、水着姿まで披露していた。

 将棋雑誌なのに。


「声、ちょっと大きいよ」


 凛太郎は声を押し殺して指摘した。


「そう?それよりさ、今月の『将棋の道』、永久保存版かもよ。坂上さんのこのグラビア、たまらん」

 女流棋士にすっかり心を奪われてしまった恭介の声は全然小さくならない。「見てよ、たろちゃん。これだよ、これ」


 確かにそれなりに可愛いとは思うが、女優さんや本家のグラビアアイドルと比べれば、やはり見劣りする。

 棋士として眼光鋭く盤に向かう姿の写真の方が彼女の良さが出ると思うのだが。

 中途半端な露出の、どこかぎこちない素人っぽい笑顔の写真に凛太郎は高い価値を見出せなかった。


「うん。そうだね」


 凛太郎は周囲の視線に耐えきれず、静かにその場からフェイドアウトした。


 分かっている。

 「将棋の道」だから、極めて地味でおくてな「生涯童貞」の二人でも安心して公衆の面前で手に取れる。

 肌の露出が抑え気味のグラビア写真だからこそ、あそこまで無垢に声をあげられる。

 胸やお尻が丸見えなら、恭介も広げた瞬間にサッと閉じ、何事もなかったようにスッとその場を離れただろう。

 そういう意味では我々二人にとっては、巷の本屋で気軽に購入できる、家で家族の目に晒しても問題のない、まさに永久保存しやすい一冊だ。

 だけど、だからと言って、同じ高校にも居そうなレベルの、もしかするとクラスメイトの小泉さんや永田さんの方が可愛いのではないか、ぐらいの被写体に八百円は凛太郎には払えない。


 凛太郎と恭介とで決定的に違うのは金銭感覚だ。

 生活に余裕のない母子家庭の凛太郎には八百円は貴重だが、恭介はどうやら裕福な家庭の一人息子のようで、「将棋の道」の年間購読を一括払いすることにも大した抵抗はなさそうだ。


 凛太郎は参考書コーナーに足を向けた。

 新しい数学の問題集が必要になったことを思い出したのだ。


 えっと、高校数学。

 高校数学。

 あっ。


「あれ?凛ちゃん!」


 高校生用問題集の棚の前に偶然にも凛太郎の年子の姉、麻実がいた。


 凛太郎は一瞬言葉に詰まったが、すぐに気を取り直して平静を装い「あ、ああ」と応対した。

 手を伸ばせば触れる距離なのに、無視するわけにもいかない。


「いたんだ」


「いたんだ、じゃないよ。凛ちゃん、今、私を見て、うわっと思ったでしょ」


 図星を突かれて、一瞬、間が空いてしまう。


「思ってないよ」


「嘘が下手ね、凛ちゃんは。折角のイケてるお顔が引きつってるよ」


 もう、と麻実が頬を指で突こうとするので、凛太郎は慌てて大きく体を引いた。

 公の場で何と恥ずかしいことを。

 凛太郎は顔が真っ赤になっていることを自覚した。


 凛太郎の様子を見て、麻実が、しまった、という表情でサッと手を下ろす。


「何?お買い物?」


 麻実は自分の手を戒めるようにお尻の方に回し、自然を装って世間話的な会話を続行した。


「ちょっと、問題集を」


「へぇ。さすが、勉強熱心ね」


「そうでもないけど」


「また、勉強教えてね」


 麻実は上目遣いで凛太郎を拝むように手を合わせる。


「ああ。うん」


 事実、凛太郎は麻実に頼まれて勉強を教えることがある。

 凛太郎の成績は学年トップクラスで、すでに三年生で習うことも予習して理解している。


「あ、そうだ」


「何?」


「ねえ。私ってどの大学、受験したらいいと思う?こんなにあると、迷っちゃって」


 同じ大学でも学部が違うだけで過去問の本も別だし……。

 ぶつぶつ言いながら、赤い背表紙に大学名が書かれた問題集がびっしり並んでいる棚に憂いのこもった視線を送る。


「そんなの、分かんないよ」


 気持ちが出てしまっただろうか。

 自分の声が突き放すような冷たさを帯びていたことに驚いて、グッと口を噤む。


 麻実は悲しげな眼差しで凛太郎を振り返ったが、すぐに本棚に顔を戻した。


「そだよね。自分が行く大学ぐらい自分で決めないとね」


「お、俺、帰るわ。じゃあ」


 凛太郎は麻実が背を向けているうちにサッと距離を取り、「え?」と麻実が振り返ったときには、脱兎のごとく、麻実から、本屋から逃げ出した。

 早足で家に帰る道すがら、本屋に恭介を置き去りにしてきてしまったことを思い出したが、足のスピードは緩めることはできなかった。

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