第6話 穴があったら

 授業終了のチャイムが鳴って少しずつクラスから人がいなくなると、リュックを肩に掛けた恭介が軽く手を挙げて近づいてきた。


「おつかれ、たろちゃん」


 椅子に座る凛太郎に「ミーティング行こうぜ」と耳打ちし、肩をポンと叩いてそのまま去っていく。

 まるでドラマのワンシーンのような格好のつけ方だ。

 ひいき目に見ても全然イケてはいないが。


 ミーティング。


 その言葉で凛太郎の体の奥底に眠っていた蛇のような生き物がゆっくり動き出し、ジリジリ、ジワジワと熱を持つ。

 これ、うずくってやつかな。

 凛太郎は鼻から一つ大きく息を吐き出して、恭介の背中を追った。


 目の前を恭介が背負う黒いリュックと、そこから大きくはみ出る水風船のようなぽっちゃりした体が、いつにない軽快さで階段を駆け上がっていく。


「こけても知らないよ」


「大丈夫だって」


 ニヤついた顔で振り返りながら恭介が三階まで上がったとき、事故は起きた。


「キャッ!」


「わっ!」


 左手の廊下からスッと現れた女子生徒とぶつかりそうになる。


 恭介はその見た目からは想像できない素早さで体をねじるように回転させ、接触回避を試みた。


 彼女との衝突は辛うじて避けることができたようだが、その拍子に恭介は廊下の壁にしたたかに肩をぶつけた。

 骨に響くような鈍い音がしたが、恭介は痛がる様子を一切見せず、その衝撃をも利用しながらの滑らかな動きで腰を直角に曲げ、「ごめんなさい」と頭を下げる。


「い、いえ」


 その子は胸の前でクラリネットを握りしめ、軽い会釈を残して、そそくさと立ち去って行った。


 女子との接触未遂事件に恭介の顔はリンゴのように真っ赤だ。

 彼は汗の滲む額に髪をへばりつけ、逃げるように廊下を走って行った。

 部室の前まで来ると、ポケットから鍵を取り出す。

 しかし、動揺が治まらないらしく、手が震えて鍵穴に入らない。


「あー。もーっ」


 恭介は眼鏡を外し、滴る顔の汗を手の甲で拭った。


「貸して」


 見かねた凛太郎が鍵を受け取り、代わりに開錠する。

 部屋に入ると、すぐ背後で恭介の「プククク」という、こらえようとしてもこらえきれないような笑い声が聞こえた。


「焦ったー。我ながら、すっげぇ焦った。そして、肩がすっげえ痛い」


「もう。見てるこっちが恥ずかしいよ」


「そんな冷静に突き放すような感じで言わないでよ。俺もこんな恥ずかしいこと、なかなかないんだから。もう、穴があったら……」

 そこで恭介は一瞬真顔を取り戻す。「入れてみたい」


 穴があったら入れてみたい。

 恭介の口癖のようなフレーズだ。

 もう聞き飽きているが、今回は凛太郎も「馬鹿だなぁ」と言いながら恭介と一緒に笑ってしまった。

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