第8話 御誂え向き。君。

彼女は、何でもないように人を捨てる人だった。

求めているものだけを、求めている人だった。


「思い人がいるのにこんな路地裏に通うなんてねえ」

彼女はあきれた顔をする。いつもだ。

「そうだね」


夜が明けそうな時間、もう出発が近づく時が、一番妖艶だと思う。

虚ろで、しかしはっきりと人を見抜く目をして、彼女はいつも囁くように語る。

「私は、彼女よりもずっと早く老いるでしょうね」

「どうして?」

「こんなに体によくないもの吸ってるもの」

「.....止めればいいのに」

「嫌よ。すきなの」

「たばこが?」

「んー、ううん。そうじゃないわ」

「?そう」

「貴方は」


「彼女よりも先に老いる私を捨てるかしら?」

「どう思う?」

「さあ」

「気になる?」

「いいえ」

「どうして?」

「....なにが?」

「どうして、タバコ吸うの」

「すきだから」



この、なににも許されず、祝福されずに、確実に自分を痛め付けながら幸せになれないのが、たまらないの。


「老いた私さえ、私は愛せるし、愛していたいの」

「老いた私は、今日の私を愛してくれる。」

「それだけでいいの」

「幸せよ。私。どうしようもなく、幸せ。」


「そこに、貴方はいなくていい。老いた私を貴方が捨てても、わたし、それでも幸せよ」


はじめて彼女をみたのは、なんでもない路地裏だった。

赤い口紅が暗闇のなかでもはっきりしていて、うつむいた長いまつげのしたに物憂げな黒い瞳があった。

黒いドレスに、黒いたっぷりとした髪。

およそ路地裏に似つかわしくない、路地裏に居るべき女がそこにいた。

おなじか、って、思った。

帰るべき場所のないどぶねずみの集まるところにいるのは、どぶねずみだけ。

帰る場所は、ない。


あんな美人なのにな。


彼女は、どこで間違えた人なんだろう。


とんでもなく高そうな女。でも、こんなところにいるのなら、自分に買えないわけではないのかもしれないと思った。


ゆっくりと彼女に近づいて行く。

自分の弱さを隠してくれよと、タバコの煙に身を包もうとしている。


彼女は、壁に背中を預けながら、ゆっくりとこちらを見上げた。

虚ろな瞳。ゆるくあげられた口角。ゆったりとした空気のなかで、ゆっくりと人を蝕んでいくだろう表情をしている。

払いきれなかった髪が、彼女の顔に表情をつける。

彼女の口が開く。

赤い口紅の、間から紡がれる一言。


「煙草、下さる?」



吸うたびに彼女の煙草は赤くなっていく。

赤い唇の間から吐き出される煙がなんとも言えなくて、いつも吸っているはずの安い薄い煙草なのにどうしようもなくくらくらする。


彼女は変わらず、ゆるく口角をあげながら虚ろな瞳で煙草の煙の先を見るともなく見つめている。

たっぷりとした髪が、彼女の表情をより妖艶に仕上げている。


路地裏で疲れた男達が煙草を吸うときと、まるで違う匂いがする。


彼女は、まっすぐに人の顔を見ない。いつも見下ろすような角度から見る。

その表情が、好きだった。


彼女の顎が自分を向いている。

ぱっちりした瞳が薄くあけられて、こっちを見ていながら彼女は俺を見ていない。

その奥にあるこころを、母親が子供を分かりきっているような表情で覗いている顔。


ひどく、妖艶なひと


この戯曲を書こう。


私は君を、離したくないから。


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