第36話 笑顔

「茜」


「ん? どうしたの?」


「俺にまだ話してないことあるだろ? 話してくれ」


 茜がサークルの合宿から戻って来た翌日、俺は茜から聞き出すことにした。今日なら疲れているからなんて言い訳も出来ないはずだ。


「話すことなんてないよ?」


「あるだろ? 俺ってそこまで信頼できないのか?」


「そんなことは全然無いけど」


 茜は何を言っているのか分からない、といった様子で首をかしげる。もう何回目とも分からないこのやり取り。恐らく茜は話す気は無いのだろう。けれど、それはもうお終いだ。


「俺は茜の友達が何をされたのかも知っている」


「……っ。気分悪いから今日は帰る」


 ここに来て初めて目に見えて分かる動揺。やっぱり茜はこの件をまだ引きずっている。それでも、表情を取り繕うのが上手いから今まで気が付かなかった。気が付けなかった。


「今日ばかりは帰らせねえよ」


「……離してよ」


「嫌だね」


 俺はその場から立ち去ろうとした茜の手を掴む。今日は、今日だけはこの手を離すわけにはいかない。この手を離したら茜が何処か遠くに行ってしまう気がして、だから絶対に離さない。


「なんでそこまでするの……?」


「茜が心配だから」


「心配することなんて何も無いよ」


「強情な奴だな。まだ分からないのか?」


 俺はやや強引に茜の手を引っ張って、茜をこちらへと引き寄せる。そして力一杯に抱きしめた。瞬間、茜の息が僅かに跳ねる。


「頼むから話してくれよ。そりゃあ、全てを話し合える恋人たちなんて存在しないかもしれない。けど、そんな顔している茜を見て心配にならない訳がないだろう?」


「……うん」


「俺は茜が好きだ。大好きだ。愛しているといってもいい。茜の顔が好きだ。コロコロと変わる表情が。たまにする悪戯っぽい表情も、照れている顔も。茜の声が好きだ。いつもは凛とした声で聞き取りやすくて、でも時々脳がとろけるほど甘い声を出す。そんな声が好きだ」


「……うん」


「髪も目も口も、体も全部好きだ。一つ好きなところを見つけたら全部好きになっていた。冷めているようで意外に嫉妬深いところも、計算高いところも、とても優しいところも全部好きだ」


「……うん」


「けれど茜の悲しい顔は好きじゃ無い。そんな顔はして欲しくない。させたくない。自分勝手で自己満足だけど、茜には常に笑っていて欲しい。だから……っ」


「もう……、なんでりっくんが泣いてるの?」


 気が付くと俺の目からは涙がこぼれていた。本当に、格好悪い。恋人の悩みを聞き出そうとして泣き出す奴がいるだろうか? 多分俺だけだろう。でもそれでもいい。惨めでみっともなくて泥臭くても、茜の心を、重荷を少しでも取り除けるなら、それどもいい。俺の気持ちが茜に伝わるのなら。


「分かった……。話すよ。全部話す」


「ありがとう」


「お礼を言いたいのはこっちなんだけどね……」


 俺は抱きしめていた茜を離して、二人並んでベッドに腰かけた。手だけは握りあったままで。


「どこから話せば良いかな? 私に付き合っていた人が居たってのは言ってたっけ?」


「ああ、あのヤリチン糞野郎な」


 ずずっと鼻水が垂れそうになったので、近くにあったティッシュで鼻をかむ。もう一枚取って顔も拭く。スッキリした。


「そう、そいつは本当に糞野郎だったんだよね」


「元凶ってことか?」


「そう。顔だけは良くてね、女子からは人気があったよ」


「でも茜は二週間で別れたって言っていたよな」


「私はね。急に家に誘われたから断って、ついでに振ったんだよ。なんか胡散臭かったからね」


「なるほどな」


「けどそれがアイツのプライド傷付けたみたいでね。あろうことか私に振られた当日に私の友だちを家に呼んだんだ」


 その友だちが親父の言っていた子なのだろうか。被害に遭ってしまったという子。茜は止めどなく話し始める。


「その子は私の一番仲の良い子だったんだ。名前は未悠みゆって言うんだけどね。未悠ちゃんはずっとアイツが好きだった。私が告白された時は、『いいじゃん、付き合いなよ』って応援してくれたんだよね」


「そうか……」


「未悠ちゃんはアイツの家に行って、そして無理矢理犯された。その後から学校には来なくなっちゃった。一回だけ私が会いに行ったときは、『茜は全然悪くないから』なんて言ってくれてね。いっそ罵倒してくれた方が良かったよ……」


 茜は力なく笑った。もう笑顔なのかどうかも疑わしい。今にも消え入りそうなそんな表情。


「でも未悠ちゃんのお母さんに言われちゃったんだ。『茜ちゃん、もう会いに来なくて良いよ』って。会いに来るなって事だったんだろうね。だって原因を作ったのは私だから。未悠ちゃんを巻き込んじゃったのも私だから」


「そんなの……っ、そんな話……っ」


「過程はどうあれ未悠ちゃんを不幸にしたのは私なんだ。そんな私が幸せになって良いのかな、なんて事をたまに考えるよ」


「幸せになって良いんだ。茜は何も悪くない」


「それを許せない自分がいることも確かなんだ。一番許せないのは罪に問われることも無くのうのうと生きているアイツだけど、次に許せないのは自分なんだよ。未悠ちゃんとは一度会ったきり、その後は会っていない。逃げるように転校したからね」


「茜は十分に苦しんだろ。もう許して良いんだよ」


「許せないよ。私がもっと警戒していれば、未悠ちゃんを止められたはずなんだ。あの頃の自分がバカだったからダメなんだ。高校に上がっても、チャラい奴に告白されて断った。そしたら翌日から、他の女子から無視された」


「そんなのどうしようも無いことだろ」


「いや、思わせぶりな態度を取った私が悪いんだよ。私がもっと上手くやれていれば、そもそも進学校に行っていたら、そんな下らないことも起きなかったかもしれない。だから私は勉強をした。心理学も学んで術を身につけた」


 やっと分かった。茜の距離の詰め方が異常に上手い理由が。決して不快感を与えてこなかった理由が。この子は会ったときからそうだった。


「だからりっくんに会ったときは不思議だと思ったんだ。手間を惜しまずに人を助けてくれることが。下心無く接してくれることが。思えば会ってからすぐに好きになってたかも。私を家に泊めても全く手を出さないことが不思議で仕方無かった。私に近付いてきたのはろくでもなしばっかりだったから」


「俺は普通だよ」


「普通じゃ無いよ。私にとっては特別なんだ。一切労を惜しまずに、毎日ご飯を作ってくれるところなんて普通の人じゃ有り得ないでしょ。恋人でも無いのに。私を意識していないところもどこか居心地が良かったのかもね」


「そうだったのか」


「そうだよ。けれど、いつしか私だけを見て欲しいと思った。私に振り向いて欲しいと思った。私を好きになって欲しいと思った。だから、私の誕生日に告白しようとしてくれた時はすごく嬉しかった」


「お前に先を越されたけどな」


「ふふっ、そうだったね」

 

 可笑しいといった様子で茜がクスリと笑った。やっと笑ってくれた。俺はその笑顔が見たかったんだ。


「ねえ……こんな私でも、りっくんは好きでいてくれる?」


「当たり前だろ。茜以上にイイ女なんていない」


「私は幸せになって良いのかな?」


「良いに決まっている。茜が茜自身を許せなくても、周りの人間が茜を許さなくても、俺だけが茜を許してあげる。何があっても、俺は茜の味方だ」


「ふふふっ、何その臭い台詞せりふ


「嫌だったか?」


「嫌じゃないよ。好き。すごく、好き」


 気が付くと茜の目から雫が落ちていた。瞳はこぼれそうなほど潤んでいる。手は爪が食い込むほどに強く握られていた。


「あと、未悠さんの話な。未悠さん、今は大学に通えているらしいぞ。どこの大学に通っているかは知らないけれど」


「え⁉ 何ソレ⁉ 嘘⁉ なんで知ってるの⁉」


「親父が心理カウンセラーで、未悠さんのカウンセリングをしたことがあるらしい」


「ああ……道理で、りっくんがしつこく気にするわけだ」


「だから茜が気にする必要はないんだ。なんなら正月とかに会いに行けば良い。親父が連絡先も持っているようだし」


「こんな偶然あるんだね」


「俺も驚いたよ。俺と茜が出会うのは必然だったのかもな」


「何それ、可笑しい」


 茜の顔にもう暗いところは見られなかった。憑きものが落ちたように笑う。もう罪悪感は拭えたのだろうか。吸い込まれるほどの綺麗な笑顔だった。


「正月、りっくんも一緒に来てくれる?」


「勿論。言われなくても付いていくつもりだった」


「ありがとう……。あのね、りっくん」


「何?」


「私もりっくんが大好き。愛しているよ」

 

 最も美しい笑顔とはどのようなものだろうか。それは泣き笑いだと思う。悲しくて泣くのでは無く、幸せで泣く、そんな笑い方。


 八月の太陽が茜のきめ細かい肌を照らし、溢れた雫はキラキラと輝いていた。閉じられた瞳はどこか優しげで、口角は嬉しさを象徴するように上がっている。


 美しい……。そんな感情しか芽生えない。言葉で言い表すことすら難しい。狂おしいほど愛おしく、混沌とした感情が混ざり合っているだろう笑い方なのに、どこか洗練された純麗すら感じさせる。


 目の前の少女の笑顔は、間違いなく、世界で最も美しかった。









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