第1話 きっかけはG

 梅雨に入り雨の多いこの時期には、珍しく雨が上がっていた。久しぶりの晴れに嬉しくなった俺は、ビール缶片手にウキウキとベランダに出る。


 外に出ると、ソヨソヨと涼しい風が吹いている。気温も湿度も高めだったが、風がほどよく気持ち良い。それに、こういう気候で飲むビールは最高にうまいもんだ。缶のプルタブに指をかけ、持ち上げる。するとカシュッと、小気味良い音が鳴る。


 ドタドタドタッ――


 さあ飲もうと、缶を口に近付けるとどこからともなく音がした。隣の部屋だろうか? まあ、そんなことはどうでもいい。早く飲もう。ビール缶との初接吻ファーストキスをかわし、口に含んでいく。


「ギャアアアアアァァ」


「ブフーッッ」


 突然の叫び声の驚いて、口に含んでいたビールを吐き出してしまった。嗚呼、なんてもったいない。これじゃあ、台無しだ……。楽しかった気分が一気に萎える。誰だよ叫んだ奴。


「出たよー、ヤバいヤバいどうしよう……」


 相手を探すまでもなく、叫び声の主は隣でブツブツ言っていた。正確には、ベランダの仕切りを挟んで隣だが。何がヤバいのよ。今まさに叫んでいたお前のほうがよっぽどヤバい人だろ。


 声からして分かっていたが、立っていたのはお隣さんの女の子だった。名前は確か……、南正覚みなみしょうがくさんだ。珍しいし、何より長い名字だから覚えていた。


「業者に頼んだら駆除してくれるのかな……?ああ、でもスマホは部屋だ……」


 業者? 駆除? スズメバチが部屋に巣でも作ったのか? 話している話している話している内容が気になって思わず南正覚さんを見てしまう。そういや、こんな人だったな。黒髪でボブカットの女の子。


 不意に南正覚さんがこちらを見る。俺も彼女を見ているので、当然目が合う。目が合ったからには挨拶をしない訳にはいかなかった。


「こんばんは」


「あ、こんばんは。ええと……、難波なんばさんでしたっけ?」


「ええ、そうです」


 どうも難波なんばりつ、大学二年男子です。意外に名前って覚えられてるもんだな。南正覚さんが四月に引っ越しの挨拶に来た以来、あんまり会ったことないけれども。


「じゃあ、俺はこれで」


 挨拶もそこそこに俺は部屋に戻ろうとする。ビールも飲みたいし。気分は少々盛り下がったが、まあいいだろう。今から酒盛りだ。


「あ、あの、ちょっと待って下さい!」


「え、何でしょうか?」


「あのあの、唐突ですけど、Gの駆除の仕方って分かります?」


「はあ? ゴキブリの事ですか? 殺虫スプレーでもかければいいんじゃないですか?」


「殺虫スプレーが近くにない場合は……?」


「丸めた紙で叩けばいいんじゃないですか?」


 俺は少々苛立って答える。なんでいきなりGの話されなきゃならんのだ。俺は早く酒が飲みたいのに。まあ、ここまで反応を見たら流石に分かる。


「紙も近くにない場合は……?」


「南正覚さん、部屋にゴキブリが出たんですね?」


「そうです、そうです」


「なら、俺の殺虫剤貸すんで。ちょっと待ってて下さい」


「あ、ちょ、ちょっと待ってもらっても?」


「はい? まだ何か?」


「ゴキブリを見ただけで、足が竦む場合はどうすればいいのでしょうか……?」


 部屋から殺虫剤を取りに行こうとした俺の行動を遮ってくる。足が竦むって……。

それはもう諦めた方がいい気がするが……。


「じゃあ、駆除は無理ですね。外に出て行くのを待つしか無いんじゃないですか?」


「そうですよね……。あの……、難波さんって虫平気だったりとか……?」


「俺に駆除しろと?」


 言い方がキツくなってしまった。しかし、これは仕方ない。ビールの一口目を邪魔された挙げ句、現在進行形で俺のビールタイムを邪魔されている。手に持っているビール缶は大分ぬるくしまっている。


「は、はい。可能ならばお願いしたいです。その、お礼にお酒を――」


「引き受けましょう」


「――購入しますのでっ……! って即答!?」


 酒の為ならば仕方ない。南正覚みなみしょうがくさんは驚いたように声を上げるが、なんら不思議は無い。無料ただで飲める酒ほど美味いものはない。


「それで、俺はどうすれば?」


「ええと、私の部屋に入ってゴキブリを駆除してもらえれば」


「どこから入ればいいですか?」


 ここはマンションの二階。ベランダからの侵入も出来なくは無いが……、死ぬほどの高さではないものの、落ちると普通に痛い。なにより、誰かに目撃されるとかなり面倒だ。


「玄関の鍵は開いているのでそこからお願いします」


「分かりました、今から行きます」


 俺はベランダから部屋に入ると、持っていた缶ビールを呷る。やはり、ビールはぬるくなっていた。けれど落ち込むことは無い。俺は今からタダ酒が飲めるのだから。殺虫スプレーとコールドスプレーを忘れずに持って、小躍りしながら部屋を出て、隣の二○一号室に向かう。表札も合っているから大丈夫だろう。


 俺は意を決してドアを開ける。


 そこには――想像もしないような未知の世界が広がっていた――。


 まず目に着くのは、段ボール。それも一箱や二箱ではない。六箱ぐらいはある。まだ、未開封の段ボール様が廊下に鎮座していた。今六月だぞ?


「お邪魔しまーす……」


 玄関に靴を揃えて、廊下を歩き部屋へと向かう。しかし、段ボール様はまだ序の口に過ぎなかったのだ。


 部屋に入ると、どこか甘くどこか酸っぱい不思議な香りがする。要するに悪臭。そして、ミニテーブルに乗っているペットボトル、弁当のゴミ。床にはゴミ袋、雑誌等が散乱している。


 まあ、要するに汚部屋。こりゃ、ゴキブリ君も出てくるわ。そもそも不思議だったんだよ。一年以上住んでいる俺はこの家で一回もゴキブリを見ていない。部屋が汚かったらそりゃあ湧くよね。


南正覚みなみしょうがくさん」


 ベランダからこちらを見ている南正覚さんに話しかける。窓は少し開いているので俺の声は聞こえる事だろう。


「な、何でしょう?」


「汚すぎません?」


「ごめんなさい」


「まあ、それはいいです。ゴキブリはどこに?」


「さっき目離しちゃいました……」


 何やってんのこのポンコツちゃん。こうも散らかっていると、どこに隠れたのかも見当がつかんしなあ。瞬間、嫌な気配がする。


「あっ、後ろにいます!」


 声を聞き後ろを振り向くと、奴が壁に張り付いていた。すぐさまスプレーをかけようとするも、こちらの動きに気付いたのか動き出してしまう。動きが速くてスプレーが当たらん。


「ひいいいいぃぃ」


 ベランダにいるポンコツが声を上げる。集中できんから黙ってくれ。あと普通に近所迷惑だから。


 ゴキブリは突如羽を広げこちらに飛んでくる。その動きを見逃さなかった俺は、コールドスプレー、殺虫スプレーを同時に吹きかける。秘技二刀流!これ本当に効果あるんかな。


 それでも、ゴキブリには一溜まりも無かったみたいで、ポトリと床に落ちてしまった。俺は近くにあったティッシュを何枚かもらい、それでゴキブリを掴む。嫌な感触だが仕方ない。床に落ちていた空のビニール袋に亡骸を入れ、これにて戦闘終了。


「終わりましたよ、南正覚さん」


「本当にありがとうございますっ!」


「いや、でもまだいる可能性あるんで」


「えええぇ……?」


「なんで、今日のところは友達の家にでも泊めてもらって下さい」


「分かりました」


 外にいた南正覚さんが部屋に入ってくる。よく見ると普通に可愛い。端正な顔立ちともいうか、美少女。だからこそ、この部屋の汚さが気になる。残念美少女とでもいうのだろうか。

 

「あと、部屋汚いんで。土日に片付けること。今日金曜だから明日なら片付けられるでしょ?」


「は、はい……。すみません」


「じゃ、俺は帰ります」


「あ、お礼のお酒は……?」


「今度でいいです。兎に角、部屋綺麗にして下さい。じゃないと、また湧くんで」


「あ、ありがとうございました」


 俺はその言葉を聞いて玄関へと向かう。お邪魔しました、といってドアを開けすぐまた近くのドアを開ける。そういえば俺別に邪魔してないよな、なんて考えながら頭はもうビールとおつまみの事でいっぱいだった。


 

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