停戦
初めて目覚めた時のことを憶えている。
暖かくて、狭くて、暗いところだった。
けれどそれが何か目の前にあるもののせいで、その外側に出ていける、出ていかなければいけないということだけはわかっていた。殻は少しだけ透けていて、外の明るさが仄かに感じられた。
殻を破るには硬い嘴と爪が必要だった。破った穴を広げるには手足と翼、それにしっぽもあるといい。
嘴で開けた穴を少しずつ広げ、差し込む光の中に頭をねじ込む。
まだ視力が弱くて輪郭がぼんやりと見えるだけだったけど、光の中に浮かび上がっているのは……顔、だろうか。
彼女は殻をバリバリと割って私を抱き上げ、何か柔らかいものでゴシゴシと拭った。
憶えている。初めて目覚めた時のことだ。
それから記憶の断片が1列になって頭を駆け抜けた。その最後でサーシャが呼んでいた。目の前で体を揺さぶっている。もう一度殻を割れ。そう言われているような気がした。
嘴はないが右手にはレイピアが握られていた。その切っ先を立て、真っ白な闇に向かって腕を伸ばす。
すると思っていたよりもずっと近くで空間にひび割れが浮かび上がり、その小さな隙間に見える向こうの世界から杖が飛んできて胸に突き刺さった。
痛いと感じるより先に疑問が意識を満たした。
なぜ、何が、どうして?
「知覚しなければ」
その気持ちが湧き出すと同時に白い闇が晴れ、現実の景色が目に飛び込んできた。冷たい空気が肺に流れ込んできた。
すでに杖は刺さっていなかった。杖の先端は胸の高さよりほんの少し上に浮かんでいた。
サーシャは杖を放り投げて体の下に手を差し込んだ。ぎゅっと抱きしめる。
「セラ、ごめん、セラ」
憶えている。母親の声、母親の体温だ。
「どうして謝るんです?」
「痛くなかった?」サーシャは訊いた。
「そういえば、胸に杖が刺さってたような……」セラは目を細めた。
「それだよ、それ」
「そうでもしないとあなたが起きなさそうだったのよ」セラと同じ姿をしたエイミーが頭上に立っていた。「酷い無茶をしたわね」
「ごめんなさい。覚えてます」
「謝るなら彼女にしたら?」エイミーは振り返って岩の上に立っているアウロラを見上げた。
アウロラは右手でランスを立てて周囲に目を向けていたが、左手はだらんと下がっていた。腕の内側が明らかに内出血している。
目頭にランスが刺さったのをかろうじて思い出した。そうだ、アウロラが救ってくれたんだ。
セラは起き上がってサーシャに服を被せてもらい、アウロラを呼んだ。
「本当にごめんなさい。我を忘れて暴れてしまう危険性を意識するべきだった」
「知らなかったのなら、仕方ない」アウロラはサーシャを見た。「謝らなくていい。それに、軍は壊滅した。森も傷ついたけど、これからはきっとフォールターの幻影が守ってくれる」
「それなら、ありがとう」
アウロラは振り返って岩から飛び降りた。着地の慣性で左肘がぐにゃんと曲がった。アウロラは顔をしかめ、痛覚を逃がすように「あ゛ッ」と一声だけ漏らした。
「ああ、なんでそこで格好つけるのよ」サーシャが呆れた。
「サーシャ、何とかなりませんか」
「痛みを和らげるくらいならできるけど、根本的な解決は無理ね。治癒魔術は高度だから」
セラはサーシャが預かってくれていたレイピアを抜いて鞘の方を添え木に提供した。刺剣の鞘は刃が当たらないので軽量だ。サーシャはベルトを使って手際よくアウロラの腕を固定した。手当ての間ミラーが心配そうに鼻先を近づけていた。
「軍医なら治癒魔術も使えるんじゃないですか」セラは提案した。
「この分だと軍も身内の負傷者で手一杯だ」とサーシャ。
「いいじゃない。もとはといえば軍の大砲が原因なのだから、その程度の責任を求めるのは間違ったことではないわ」とエイミーは言うなりフォールターの轍に沿ってずんずん軍の陣地へ向かって歩き出した。セラはアウロラに付き添ってエイミーに続いた。
「おまえはここで待っておいで。人間が来たら逃げていいからね」サーシャもミラーに言い置きしてから追ってきた。
「思ったより起伏があるわね」とエイミーは先頭を歩きながらぼやく。
轍には倒れた木が圧力で土の中に沈み込み、その周りには逃げ遅れた樹上性・地上性の小型の龍(トカゲ)や虫の死骸が埋まっていた。土の丘を越える度に新しい惨状が見えてくる。そしてきりがない。
ふとその起伏の陰から数人の兵士が姿を現した。カーキ色のユニフォームはすっかり汚れてあちこち擦り切れていた。彼らはまるで最後の力を振り絞るように小銃を構えた。
「何者!」
「私はエイミー。そう呼ばれているわ」
エイミーは足を止めない。まるで銃を知らないみたいな振る舞いだった。セラは引き止めたかったが手の届く距離ではなかった。
だが幸いなことに兵士たちが引き金を引くことはなかった。
「まさか……狩人殿?」
あまりに格好が
「待て、銃を下げてくれ」サーシャが追いついて大きく手を振った。
「……あんた、生きてたのか」
「ああ。そっちは?」
「生存者の捜索だ。この辺りに観測基地があったはずなんだが……」
たぶんフォールターに踏み潰されて消滅してしまったのだろう。
――いや、何を他人事のように言ってる? フォールターというのは自分のことじゃないか。セラは一体どれほどの命が自分の手の下敷きになったのか想像した。
「報告したいことがある。司令部まで案内してもらえないか」サーシャが兵士たちに訊いた。
「それなら1人貸そう」そう言って先任の兵士は自分たちの中から一番若そうな青年を案内役に選んだ。
森の縁に築かれた野営地は一面焼け野原になっていた。怪我をした兵士がよろよろと歩き回っている。残っているテントもほとんどない。組織的な治療が行われているとは到底思えなかった。
「司令部はあそこです」
兵士が指差したのは4本の支柱に幌をかけた屋根だけのテントだった。その下に地図を広げたり座ったりするための木箱がいくつか置かれていた。
その一番奥にあの参謀補佐がほとんど放心状態で座っていた。軍服は煤まみれになり、額には血を拭った跡があった。
サーシャは「待ってて」とセラに言って屋根の下に入った。もちろんアウロラを中に入れるなという意味だ。
「司令官は?」サーシャは参謀補佐の目の前に立って訊いた。
「戦死しました」参謀補佐は掠れた声で答えて顔を上げた。「サーシャ殿、生きておられましたか」
「なぜ砲撃作戦のことを教えてくれなかったんです。何も言わずに彼らを置き去りにしたのは確かにこちらの落ち度ですが、そのあとの計画を知っていればいくらでもやりようはあった」
「……おっしゃる通りです」
「ジオ・フォールターは岩盤に潜りました。しかしあの砲撃は覚えたでしょう。大軍が近づけばまた現れる。いや、この森の近くだけとは限らないかもしれない」
「我々の責任です。本当に申し訳なかった」
参謀補佐は立ち上がって深く頭を下げた。
「私は決して私たち自身が砲撃を浴びて死にかけたことに対して問い詰めているわけではない。それはわかっていただきたい」
アウロラが踏み出した。セラは制止しようとしたが彼女の体はガチガチに力んでいて止めようがなかった。サーシャが横に出した手にぶつかるようにしてようやく足を止めた。
「腕を治しに来たんじゃないか。余計なことをするな」サーシャはアウロラを押し戻そうとした。
「おまえが命じたのか」アウロラは詰め寄るような口調で言った。「この狩人の言ったことの意味がわかるか?」
参謀補佐は相手を見定めるような目でアウロラを見返しながら頷いた。
「森も、森の生き物も、深く傷ついた。謝罪など言葉に過ぎない」
「……もしや、龍の姫」参謀補佐は呟いて、力が抜けたようにまた木箱に座り込んだ。「果たして、力では及ばなかったか……」
セラは彼の気持ちがなんとなく理解できた。敗北を悟ったのだ。でもそれは軍のフォールターに対する敗北、あるいはアウロラに対する敗北ではなかった。彼自身のサーシャに対する敗北だ。この状況だから、サーシャがアウロラと交渉してフォールターを鎮めたのだと思ったのだろう。純粋な暴力では軍隊でも龍に及ばなかった。必要なのは力ではなく龍に対する理解だったのだ。それが彼の言葉の意味だろう。
アウロラがサーシャの腕を押し下げて参謀補佐に一歩近づいた。アウロラが落ち着いたからか、サーシャは止めようとしなかった。
「人間がどれだけ足掻こうとあの傷を癒やすことはできないだろう。おまえがどれだけ思慮深くなろうとこの森の深い痛みを知ることができないのと同じだ。恥じろ。恥じてその恥の中で死んでいけ」
アウロラは参謀補佐が腰に
他の全員が身構えたが、アウロラは何もそれで切りつけてやろうというつもりではなかった。柄を下にして軽く投げ上げ、体を捻って刀身の根本に中段蹴りをぶち当てた。刀身側面の中心線を足の親指の付け根が精密に捉えていた。上体の捻り、腰の回転、膝の伸び、足裏の固さ、すべての威力がその一点に集中していた。
軍刀は全身を撓らせて一度は衝撃に耐えたかに見えたが、その反動で逆に撓りながらポッキリと折れた。鍔から拳ひとつほどの長さだ。刃先の方は風車のように回りながら飛んで屋根の支柱に突き刺さり、柄の方はもっと高速で回転して地面を走り、何度か弾んだあとぬかるみの中に飛び込んで姿を消した。
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