冥界の穿孔

 ジオ・フォールターは臼砲の砲座を尽く踏み潰したあと、天を支える柱のような4本脚を大地に下ろして一度落ち着けた。頭の上に小さな人影があった。アウロラがオーバーライドを成功させたのだ、とサーシャは理解した。

 フォールターは首を森の方へ向け、ゆっくりと体を曲げていく。そのまま森へ引き返すかに思われたが、おもむろに動きを止め、長い尻尾を体の横に引きつけた。

 力を溜めているのだ。

 間もなく筋肉や骨が軋む地鳴りのような振動が大気を震わせた。フォールターは渾身の力で尻尾を水平に振り、草地に点在する兵舎や司令部のテントを薙ぎ払った。

 サーシャは信じがたいものを見た気分だった。テントはフォールターの尾に触れるより早く、極限まで圧縮された空気によって砕かれていくようだった。直後に襲い来る尻尾本体によって軽々と天高く打ち上げられ、衝撃波を浴びてさらに散り散りになりながら吹き飛んでいく。遠すぎて落下点が見えない。高速で走る尻尾の後方には白い雲が生まれ、巻き上げられた土煙と混じって周囲の視界を塞いでいった。

 フォールターは尻尾の反動に任せるようにしてその靄の中に倒れ込んだ。巨体の輪郭が崩れていく。アウロラが変身を解いてくれたのだ。ケシ粒のように小さな人影が空中に投げ出され、ミラーがそれをキャッチして飛び去って行くのが見えた。

 サーシャは自分がすべきことを察した。

 このまま何の痕跡もなくフォールターが姿を消せば、あの参謀補佐もさすがに違和感を抱くだろう。メタモーフの仕業だったと説明するならそれでもよかったが、今この状況ではそれは得策ではない。セラが罪に問われる恐れがある。


「エイミー、拾ってね」

 サーシャはエイミーの首を蹴って空中に飛び出した。

 杖を掲げ、その先端を靄の中心部に差し向ける。

「土と冥府の神よ、大地を鎮めし火の精霊よ、我がこえを聞き、今再びあめ穿つ岩漿がんしょうの奔流を現せ」

 外界のマナを借用する大規模な魔術の場合、励起術式といって詠唱にも多少長さが必要になる。

「――出でよ、ボルカニック・ブレーク」

 唱え終えた一拍ののち、サーシャの体は強力な上昇気流によって吹き上げられた。ぐるりと旋回して戻ってきたエイミーの前脚にどうにか掴まった。

「飛べ! まっすぐ、全力で」

 エイミーはぎょっと目を丸くして大きく翼を動かした。全身が上下に波打ち、渾身の力で羽ばたいているのが伝わってきた。


 直後、背後から猛烈な衝撃波が襲いかかった。真っ赤なマグマが雲を突き破り、後を追って黒煙が吹き上がった。その中に混じって小さな噴石が銃弾のように飛んでいく。

 噴火自体は継続的なものではない。地面に落下したマグマは炭のように少しずつ冷えていったが、噴煙だけは延々と立ち昇り続けて太陽をかげらせていた。

 火口は地面にぽっかりと開いた直径100mを超える大穴になっていた。その縁には灰や岩石が降り積もってすでにクレーターの様相を呈していたが、深すぎて一見しただけでは底がどこにあるのか見当がつかなかった。これならジオ・フォールターが岩盤へ潜るために掘った穴だと言っても通用するはずだ。


「サーシャ!」

 アウロラの声が呼んでいた。サーシャが声の方向へ振り向くと、黒い灰の降る中をアウロラのミラーが飛んでくるのが見えた。

 アウロラが何か白いものを抱えていた。

「サーシャ、大変だ。セラの変身が終わらない」

 その「何か白いもの」がセラであることにサーシャは気づいた。

 かろうじて人間のシルエットにはなっているが、手足の造形が省略されていて、頭ものっぺらぼうだった。変身が途中で止まってしまったらしい。

「オーバーライドは。成功したんでしょ?」

「変身するまでは掴めてたんだよ。でもそのあと解けてしまった。意識がないとだめなの」

「クソッ!」

 フォールターには変身するなと先に言っておくべきだった。

「私だって……」とアウロラ。

「お前に言ったんじゃない。ごめん」


 アウロラのミラーはフォールターが切り開いた道の上に出て、森の中に着地できる場所を探して飛び込んだ。エイミーも続く。

 サーシャはアウロラが地面に寝かせたセラの横に駆け寄った。

 石膏のように真っ白だ。それでいて手触りはしっとりぷにぷにしていてなんだかゴムのようだった。人間の肌とは違う。

 ぬくもりはある。でも息はしていない。鼓動も感じられない。このままではいずれ熱が失われて死んでしまうのではないかという感じがした。

「私自身もこれを恐れていたのよ。体のコンディションには気を遣っていたわ」エイミーがセラの姿に変身してローブを纏いながら言った。「セラはなりふり構わず、情動に任せて力を振るってしまった。体力が残らなかったのね」

「疲れているから変身に失敗するなんてことは今までなかった」サーシャは言った。

「それはせいぜい人間や龍の範疇はんちゅうでしょう。フォールターは違うわ。あなたならわかるでしょう。脊髄の直径が人間の脳より大きいだとか、血管そのものが心臓の機能を持つだとか、そんなものが私たちと同じ『生き物』と呼べるものだなんて」

「わかってる。理屈はいい」

 エイミーはセラの体を挟んでサーシャの向かいに膝をついた。エイミーも真剣にセラを心配しているのだということがその行動で理解できた。

「放っておいてどうにかなるとは思えない。どうすればいい?」サーシャはとりあえずセラの肩を掴んだ。

「この状態では五感は機能していないわ。呼びかけても、揺さぶっても、この子の意識には届かないでしょう」

「……何で知ってる?」

 エイミーはその問いかけには答えなかった。

 サーシャはセラの額のあたりに手を当てた。何か魔法が使えないだろうかと考えたのだ。感覚に頼らず意識に訴える魔術?

 サーシャは顔を上げた。アウロラは木の根に上って他の人間が近づいてこないか辺りを警戒していた。

 そう、オーバーライドだ。が、意識がなければ効果がない、か。


「ダメね。まるで反応を示さない。これだけ周りで騒いでいるのに」エイミーが言った。

 わかっている。騒ぐ、というのは声だけの問題ではない。気配や振動、生き物が常に発しているという微弱な電気もそこには含まれている。今のセラはそれらを受け取る方法を失っているのだ。

「呼び戻すには刺激が必要なのよ」とエイミーはセラの首元や胸に手を伸ばした。「あなたの魔術で撃ち抜きなさい。そうね、このあたり」

「何を言ってる。心臓の位置だ。殺せと言うの?」

「心臓も何も、この状態ではまだ内臓が形になっていないわ」

「バカな」

「痛みと再生の要請こそ生命にとって最大の刺激だわ」

 エイミーは体を屈めてセラの肩に顔を近づけた。

 そして口を開け、歯を立てた。

 何か嫌な音がして白い肌の中に歯が食い込む。

「何をしてる?」

「反応はないわね。でも、見て、傷が塞がっていく。さっきよりも硬くなっている。触ってみなさい」

 サーシャはエイミーに倣ってセラの肩を撫でた。確かに肌の質感がわずかに硬くなっていた。脱皮が終わった直後の鱗のようだ。

「この感じ、フォールターの体の記憶かしら」

「戻ろうとしているのか……」

「ね? このまま待っていてもセラは戻らない。肉とも言えない肉になって腐っていくだけだわ」

「戻るって、それでフォールターに戻ったら最悪だ」

「なら、呼びなさい。あなたが求める彼女の姿に引き戻しなさい」エイミーは杖を拾い上げて差し出した。

 サーシャはそれを受け取り、先端を下に向けて掲げ、セラの体を跨いだ。

 エイミーは何歩か下がりながら、なぜか微笑んだ。

「形なきものを、それでもセラと呼んだわね、あなたは。いいわ、それでいい。あなたの信念こそがその子をこの世の存在に留めるもやいになるのよ」


 サーシャは狙いをつけた。

 杖の先端とセラの胸が重なる。目も鼻もない顔がこちらを見上げて何かを訴えているような感じがした。

「殺さないで」

 そう、紛れもなく殺そうとしているのだ。自分の手で、愛すべきものを。

 なぜこんなことを?

 生かすためだとわかっている。でも形として真逆のことをしようとしているのをなかなか肉体が受け入れなかった。

 クソッ。

 息を止め、丹田にぐっと力を込めて杖を握る。

 やれよ。大丈夫さ、エイミーが噛んだ傷は一瞬で治った。ロックホーンの巣で負った深手だって治ったじゃないか。

「行くよ、セラ」

 もう一度息を吸う。

 そして唱える。

「レーザー・ブレイズ」

 杖の先端がわずかに赤熱し、超高温の光線がセラの胸を上から下へ一瞬で貫いた。

 薄い白い肌の内側からピンク色の肉が飛び散り、射線にあった肉が蒸発してほぼ真円の穴を穿った。その穴の内側が熱で焦げて炭化していく様子まで見えた。

 サーシャはすぐに杖を握り替えて魔力の供給を止め、光線を切った。杖を投げ捨て、衝撃でわずかに浮き上がったセラの体を抱き上げた。やはりとんでもないことをやってしまったような感じがした。


「呼びなさい」エイミーがもう一度言った。

 ほとんどその声に被せるようにサーシャは「セラ、戻ってこい」と叫んだ。

 するとセラの体ががくんと跳ね、穿たれた穴の周囲からしゅるしゅると組織が伸びて傷を塞いだ。

 それとほぼ同時にまるで空気の吸い口を求めるかのように顔面に口が開き、驚きを表すかのように瞼が切れ込んでパッと目が開いた。空気を取り込んだ胸が大きく広がり、どくどくと心臓が動き始める。サーシャの背中に回った腕にはすでに人間の繊細な手と指がしっかりとついていた。

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