想像の龍
茫漠とした針葉樹の樹海が眼下に広がっている。霧のブレスで一帯を覆おうとするミラーの姿も下に見える。霧が木々の頭よりも低い地表付近だけを覆っているのがよくわかった。ジオ・フォールターの頭がそれだけ高い高度にあるのだ。
龍の背に乗って飛んでいる時の視界に近い。が、それでいて首の骨を伝ってズシンズシンと足音が響いてくる。不思議だ。アウロラはちょっとした首の動きで振り落とされないようにしっかりと角に掴まっていた。
太く短いうえに目の後ろにあって後ろ向きなのでかなり難しい。地面に潜る時邪魔にならない形なのだろう。根本が左右に膨らんでいるのは耳を保護するためなのだそうだ。そういった合理的な想像力がこの龍に詳細な肉体構造を与え、ひいては具象化を可能にしたのだ、とエイミーは言っていた。
ミラーの霧の切れ目の向こう、樹海のあちこちにノミで削り取ったような細長い跡がついている。そこだけ木々が薙ぎ倒されている。ジオ・フォールターが出現した痕跡だ。だがその跡は飛び飛びになっていて連続ではない。もしジオ・フォールターが実在してこの森を実際に歩き回っていたら、この程度の被害では済まなかっただろう。
ミラーがブレスを切って高度を上げる。周囲から人間がいなくなったという合図だ。
ジオ・フォールターは特に反応を示さない。体を動かすと心拍数が上がるのはわかるが、周囲の環境の変化にはまるで無関心だった。オーバーライドをかけていると龍の心の変化が多少感じられるようになるのだが、それがほぼ皆無だった。やっぱり他の龍とは違う。
いや、
操っていても体が動き始めるまでに大きなタイムラグがあって、止める時もなかなか止まらない。とにかく制御が難しい。生き物として限界を超えた大きさ、ということなのかもしれない。
アウロラはオーバーライドを使ってエイミーをセラの姿に戻した。ジオ・フォールターの体が粘土のようにエッジを失って溶け、それが空中の一点に集まって一度白い球体になり、そこから少しずつ人の形になっていく。
普通、イストリア・メタモーフの変身は一瞬も要さない。瞬きした間に全く違う形になっている、というレベルのものだ。変身の過程がはっきり見えるというのはありえない。この遅さはオーバーライドが原因ではない。他の龍への変身なら操った状態でも一瞬だった。やはりジオ・フォールターの大きさが何かよくない影響を与えているのだろう。
アウロラは落下しながらエイミーを捕まえ、降下してきたミラーの首に飛びついた。
なんだか生命がまだ生命になる前の原液のようなものに触れているような感じだ。そんなものを肩に担ぐのは気持ちのいいことではなかった。
何もない顔に目の窪みが生まれ、耳と鼻が開き、唇と瞼切れ込んでいく。薄く開いた口の中で歯が生え揃っていく。
と、そこで変化が急激に加速し、気づけば完全にセラの姿に戻っていた。何かしら意思の覚醒のようなものを感じるスピードの変化だった。生き物としてまともな肉体構造に戻ったことで精神もまた機能を取り戻したのだろうか。
だがまだ目は覚めていない。気を失ったままだ。オーバーライドも受け付けない。オーバーライドは催眠とは違う。対象が覚醒していなければ掌握できない。
…………
ジオ・フォールターへの変身を提案したのはエイミーだった。アウロラはそんな名前の龍を全く知らなかった。
「あれだけ大規模な軍隊を相手にするのだから、大きい龍の方がいいでしょう? フォールターっていうのはとてつもなく大きい龍なの」
「フォールター? 何? 聞いたことも見たこともない」
「当然よ。あれは狩人たちの想像力の賜物だもの。でもその存在はとても古くから信じられていて、実在の龍と同じくらい詳しい研究があるの。骨格から筋肉の付き方、内臓の配置、神経の通り方まで詳らかになっている。そういった想像図を見た時、これなら行ける、と私は思ったわ」
「メタモーフの変身は実際に目の前で見たものだけを模倣するんじゃないの?」
「メタモーフには一度見たものの形や動きを極めて具体的に記憶に焼き付ける能力があるらしいわ。自分の記憶から変身対象のイメージを引き出しているんでしょう」
「そんな他人事みたいに言われても……」
「私自身は感覚でやっているのよ。仕組みなんかわからないわ」
「まあ、このさい理屈はいい」
「でもね、フォールターには忘れちゃいけない悲しい性質があるのよ。フォールターは他のどんな生き物より巨大な脳を持っている。そのせいで神経信号が脳の端々へ行き交う間に自分が何を考えていたのか忘れてしまうのよ。だから肉体の赴くままに行動することしかできないだろうって」
「……つまり、バカなの?」
「そうね、バカなの」
「かわいそうな言われよう」
「あなたが先に言ったのよ。――ともかく、私がジオ・フォールターに変身したらあなたはオーバーライドを使って私を操って。たぶんそうしないと私はまともな思考を失って何をしたらいいのかわからなくなってしまう。好き勝手に暴れるだけ暴れて、この体への戻り方だって忘れてしまうでしょう。それはあなたやこの森にとっても危険だわ」
「だから今までやらなかったの?」
「そういうこと」
…………
「うっ、きもちわるい」
アウロラの肩の上でエイミーが目を覚ました。
「何なの、これ。今になって手足の感覚が流れ込んでくる」
「大丈夫? なんだかよくわからない液体みたいなものになっていたけど」
「途中経過は覚えてないわ」
「フォールターになってた間の記憶はあるのね?」
「……そうね、覚えてるわ。記憶だけはある。まるで夢の中みたいに体が勝手に動いていた」
「危なっかしいな」
「あなたのオーバーライドがあれば大丈夫よ。なんだかスカッとしたわ。そうよ、あなたに任せていれば引き籠もりの私でも戦えるじゃない?」
「元気なら自分で掴まって」
アウロラは畳んでおいたローブをエイミーの懐に押し付けた。
エイミーはそれを首周りで結んで羽織り、ミラーの鱗の棘に手を伸ばしてアウロラから離れた。進行方向を背にして立ち上がる。
「なんなら私があなたを守ってあげてもいいわ。このミラーにも苦手な場所はあるでしょう。この森も守らなくてはいけない。私は違う。私ならあらゆる龍の姿になってあなたをどこへでも連れていける。北の氷棚、南の砂漠、東の高原、西の大陸。狩人たちの手はすでに世界の辺境にまで及んでいるわ」
「急に自信たっぷりだな……」アウロラはいささか気圧された。
「それはそうよ」
「私のオーバーライドありきだってのに……」
「だから誘ってるのよ」
「ンー……」アウロラは困った。今決めないといけないようなことなのだろうか。
「まあいいわ」
エイミーは棘を掴んだまますっとしゃがんだ。案外恐かったのか、興が醒めて恐くなってきたんじゃないか。それから森のあちこちの抉れた地面を見下ろした。
「ひどい傷ね。森を守るなんて言っておいて、めちゃくちゃにしているのは私たちの方。違う?」
「あれを見れば人間たちはフォールターを信じて恐れる。必要な代償だよ。この先ずっと踏み荒らされるよりいい」
「かなり押し戻したのね。人の気配が全然ないわ。昨日はこの辺りまで分け入っていたのに」
ミラーは木々の頭よりほんの少し高いところを飛んでいた。掠めた木々の中から驚いた鳥たちがわーっと飛び出してくる。警戒していない証拠だ。人間に寄っていく鳥もいるが、ほとんどの場合距離を取る方へ動くものだ。
ミラーは縄張りを見回るように大きく周回しながら、周りより少し高く伸びた木を狙って鞭のように尻尾を打ち付けていく。10秒に一振り程度の間隔。尻尾の先端には液状のフェロモンを分泌する臭腺がある。要するにマーキングだ。飛んできた他の龍は匂いでミラーの存在を察知することができるし、撥ねられた枝葉は地上に落ちて歩行性の龍や狩人にも縄張りの境界を知らせる。
この森に棲むミラーはこの1頭だけ。普段は縄張りを主張する必要などないから、この行動も滅多にやらない。軍隊の侵入かフォールターか、原因は知らないが、強いストレスを感じているのだ。オーバーライドなど使わなくてもフォールターよりよほど心が読める。
ミラーはねぐらの上まで飛んでくると木々の間にぽっかりと沈んだ飛び立ち岩を中心にぐるりと旋回に入った。羽ばたきを増やしつつ降下、岩の上に足をついて体を沈み込ませる。アウロラとエイミーは首が下がったところで岩に飛び移る。アウロラはその勢いのまま地面に降り、一歩一歩伝ってくるエイミーを待った。
ミラーが咆える。
エイミーが地面に足を下ろすのとほぼ同時だった。
木陰から何か黒いものが飛び出し、わずかに放物線を描いて飛んでくる。
自分が狙いだ、と直感したアウロラは岩を蹴って後ろに飛のいた。何か鋭いものが目の前を掠めた。
「あら、サーシャ。来てくれたのね」
エイミーはその場から微動だにせず、覆いかぶさるように着地したサーシャを見上げていた。サーシャの杖の先はエイミーの頭の横、拳2つ分くらいのところに突き立っていた。
「なぜこんなところまで」アウロラはハンドスプリングで起き上がって身構えた。
「この場所はセラが知ってる」
サーシャは後ろを振り返った。
太い木の根本にセラが立っていた。
「それに、先回りするだけの猶予もあった。おまえたちが悠長にぐるぐる飛んでいたからね」
サーシャは杖を持ち替えて地面に打ち下ろした。
「聞きたいことは山ほどある。答えてもらおう」
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