破綻した救い
「ミラーの背中ってすごくつるつるして滑るのね」
アウロラの前に跨った少女は言った。アルハンゲル・ミラーは丘の高さより少し高い高度をゆったりと北へ向かって飛んでいる。少女はその首の背の鱗を覗き込んで自分の顔を興味深そうに映していた。彼女の言った通り、ミラーの鱗は人工の鏡よりも平滑な表面を持っている。その鱗のせいで長年密猟の標的にもされてきた。
ふと鱗の表面を深く覗き込んだ拍子に少女の体が右へ傾いてつるりと滑り落ちそうになる。
アウロラは慌てて手を伸ばし、少女のローブの襟ぐりを掴んで引っ張り上げた。
「死ぬところだったわ」と少女。
アウロラがずり落ちないのはミラーの首の背に生えた棘をしっかりと握って体を支えているからだ。棘と体の間まで少女を引っ張って抱きかかえた。
「あなたって不思議な匂いがするのね」少女は丸くなりながら言った。「人間のような、ミラーのような」
「……あなた、そんなこと言う性格だった?」アウロラは訊いた。
「え、なぜあなたが私のキャラを知っているの?」
少女の赤い目がまじまじとアウロラを見上げる。
アウロラははっとして少女に鼻を近づけた。
イストリア・メタモーフの匂いだ。
だが、セラはもう少し人間の匂いがしなかっただろうか。
「……セラじゃない?」
「うん。なぜセラだと思ったの?」
「その姿……」
「見かけで個体を判別するなんて、まるで人間ね、あなた。セラという個体に固執するのも、あの魔女と同じ」
アウロラは呆気にとられたまま何も言えなかった。
「私はエイミー。龍研ではそう呼ばれていたわ」
「龍研にいた?」
「そう。囚われていたの。あなたがセラを人間から解放したいなら、私のことだって解放したいんじゃないかしら。違う?」
「……まあ、ああ」
「じゃあ、決まりね」少女は起き上がって進行方向をまっすぐに指差した。「さあ、行こう、北の大地へ」
なぜイストリア・メタモーフが北に行きたがる? 分布は首都より南のはずだ。
アウロラはまだなんだかよく状況を掴み切れていないような気持だったが、とにかく、連れてきてしまったものは仕方がない。何となく落ち着きのないミラーの鱗を撫でて宥めた。
森の切れ目に広い池が見えてくる。アウロラはミラーの鱗を叩いた。ミラーは少しだけ振り返って池に向かって降下していく。そろそろ休憩しよう、という呼びかけを汲み取ってくれたようだ。
池の周りではラプテフ・ホッパーの群れが水飲みや水浴びをしていて、ミラーを見て襲撃者だと思ったらしく一斉に騒ぎ始めた。
着地したミラーの上を飛び回り、1羽か2羽ずつ順に急降下して尻尾の先をミラーの背中や首に打ち付け、すぐに飛び去る。モビング(擬攻撃)という習性だ。逃げずに立ち向かってくるということは、ここはホッパーたちの縄張りで、近くに子育てのためのコロニーがあるのだろう。
最初はミラーも首を上に向けて反撃の体勢をとっていたが、しばらくすると姿勢を低くして伏せのポーズに切り替えた。敵意はない、という意思表示だ。ミラーも逃げられればいいのだが、体の下にいるアウロラとエイミーを守ろうとしていた。
ミラーが伏せのポーズになるとホッパーたちは次第に離れていき、気合いの入った数頭だけが地面に残って後ろから尻尾や翼の先に噛みつこうとしていたが、彼らもアウロラが出ていってランスを振り回すと諦めて逃げていった。ミラーはホッパーの毒に耐性を持っているので多少唾液をかけられたり噛まれたりしても心配はない。
ホッパーの群れはミラーから100mほどの距離をとって再び水飲みや水浴びに戻り、ミラーも低い姿勢のままゆっくり動いて水辺に首を伸ばし水を飲み始めた。ひとしきりの争いを経て互いの距離感を把握したようだ。
「救ったところで誰もあなたには感謝してくれない。あの中にもあなたに救われた龍が1頭や2頭いるかもしれないのに」エイミーは言った。水際にしゃがんで水に手をつける。「――私、飲むならもっと綺麗な水がいいわ」
「それでも構わない。龍たちが私を必要としているのはわかる」アウロラは全身の泥を落とすために腰くらいの深さまで池に入っていた。
「必要、かしら。都合がいいから利用しているだけ、じゃない?」とエイミー。
「大して違わない」
「あなたはセラと似ているわ。自分が『異なる者』として扱われる世界に居続けることに意味や論理を探し求めている」
「自分の趣味に過ぎない、そういうこと?」
「というのもあるだろうし、ただ、気づいたらそうなっていた、自分にとってはそれが普通だった、それだけのことかもしれないのに、ということ。つまりね、もしあなたがマジョリティだったなら全然気にもかけないだろうようなことをあえて考え込んでいるのよ。だからその論理には簡単に破綻が生じてしまう」
「破綻?」
「そう。あなたは龍の求めに応じて人間の手から龍を救うのでしょう? でも、セラのことは彼女の意思に反して連れ去った。彼女も龍なのに」
「いや、もと居た場所に帰すべきかもしれないと思っていた」
「ふうん」
水を飲み終えたミラーがエイミーの方へ首を伸ばす。見知らぬ相手を調べようとしている動きだった。エイミーは立ち上がって両手でその鼻先を受け止め、撫でる。が、ミラーは始め少し嫌がったが、格付けの「顎乗せ」をやろうとはしなかった。対等な相手と認めたようだ。何か察するものがあったのだろうか。
アウロラはさっさと体を洗い、服を絞って岸に戻った。まだ水が冷たくて凍えそうだ。きちんと乾かしてから着たい。
「じゃあ、こういうのはどうかしら」エイミーは訊いた。「あなたは龍研に何頭くらいの龍が囚われているか知っている?」
「100頭くらいか」
「いい線ね。私の最新の情報で85頭。さて、その中で外に出て野生で生きたいと思っている龍は何頭?」
「全部だ」
何となく違うような気はしたけれど、そう答えるのが自分の意見としては正しいとアウロラには思えた。
「残念。21頭よ」エイミーは言った。
「少ないな」
「檻の中は危険がないし、ごはんもおいしい。夜ぐっすり眠れるってとても気持ちがいいのよ。そういう、私と同じような意見の龍が大半なの。逃げ出したいと思っているのは、捕らえられて日の浅い龍、比較的若くて、かつ十分野生で育ってから捕らえられた龍が多いわね。彼らには外との連絡手段がないから、今までその声があなたに届かなかったのでしょう。でも私は知っている。その情報があればあなたは彼らを救い出すことができる。少なくとも、救い出そうとすることはできる」
「教えるのに何か条件があるの?」
「ないわ。教えないの。私は自分が持っている情報をあなたには教えない」
「なぜ」
「彼らは龍研にいるべきだから。私がそう思うから、よ。あなたがセラのことを知ろうとしたのと同じように、龍研の研究者たちは世界中のあらゆる龍について知ろうとしている。人間の知を集積する能力は他のいかなる生物種も比較にならないほど高いわ。私もその知に期待をかけている。だから彼らには貴重なデータの提供者でいてほしいのよ」
「それは自分勝手だ」
「そう。自分勝手。他の龍が好きに生き、あなたに感謝しないのと同じように、自分勝手な私の望み。でも、それもまた、私という――イストリア・メタモーフという龍の望みよ。さあ、あなたはどうする?」
「龍研に行って、直接龍たちに確かめればいい」
「じゃあ私の望みは無視するのね」
「それはあなた自身についての望みじゃない」アウロラは魔法の熱風で十分に乾かした服を頭からかぶった。
「そうね、それが正論でしょう。でも自覚しなかった? あなたが捉えているのは龍種全体の意思が漠然と統一されている状態なのよ。だからミラーがホッパーを捕えて食らうというような食物連鎖は受け入れることができるけれど、そういった節理から逸脱したところで龍同士の対立が起こると、結局は自分が望むように行動することしかできない」
それは詭弁だ、とアウロラは思った。エイミー自身、アウロラの方が正論だと認めている。だがなぜか考えるのをやめることができなかった。何か言い返したかった。
「檻の中の生活がいいなら、なぜセラの身代わりになんか」アウロラは髪を梳かしながらふと気づいたことを訊いた。
「街に飛んでくる鳥たちの話を聞いて世界のことを何でも知ったような気になっていたわ。でも違った。私が知っていたのは故郷と首都のことだけだった。サーシャと旅に出て、現実の景色を見て、それがよくわかったわ。もっと野生の龍たちの姿を見たいと思った。そう、ちょうど今目の前にあるような景色が見たかったのよ。それならあなたについて行くのも悪くないでしょう?」
「考えが変わった、の?」
「そう。あなたが発端で、ね。つまり、あなたがやっていることは結果的に正しいこともあれば間違っていることもあるのよ。どうせ他人の運命を振り回すなら、原理に合うか合わないかで考えるよりも、自分の好き嫌いに従った方が迷惑が少ないし、龍的な在り方としても正しいと私は思うけれど」
「言葉は嫌いだ。頭がごちゃごちゃする」
「それでいいわ。私も他の生き物になっている時はそう感じるもの」
ホッパーの群れがもう一団やってきて池の対岸に降り立った。もと居た群れの隙間に1頭1頭が下りていく。翼をばたつかせて互いの距離を調整しているのが見えた。着地に失敗して周りから噛まれているのもいた。エイミーは面白そうにその様子を眺めていた。
「東から?」アウロラは呟いた。
なぜ東からホッパーの群れが来る? 東に向かって渡りをしているはずなのに。
「軍隊があなたを探しているらしいわ。さしずめ追い立てられてきたのでしょう。規模によってはあなたも逃げた方がいいかもしれないわね」
「龍の領域を荒らす人間は許さない」
「あなたの存在が呼びこんだとしても?」
「だからこそ、私がカタをつける」
エイミーは青いヒタキの姿になってアウロラの肩にちょこんと乗った。
つまり「私は温室育ちだから戦いの役には立たない」という意味の行動だ。アウロラにはそれが理解できた。
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