ミルクをください
「ア゛ッ、ウワァ……」
翌朝目を覚ましたサーシャは自分の体がフンまみれになっていることに気づいた。
イストリア・メタモーフの雛は胴あての上で眠っていた。
鎧をつけたまま眠ったのはむしろ正解だったかもしれない。鎧なら乾いたあとでこそぎ落とせばいいが、布だったら染み込んでいただろう。
サーシャは雛を抱えて床に下ろそうとしたが、その体は妙にぐったりしていた。
生まれて1日何も食べていないのだから考えてみれば当然だった。
サーシャは鎧を脱いで食堂でミルクを買ってきた。
「ここで死なれたら元も子もないからね」
独り言を言いながら指につけて口の上に垂らすと、雛は待ってましたと言わんばかりに起き上がり、ボウルに移したミルクをぐびぐび飲み始めた。
無駄に顎を動かすのでそこら中にミルクが飛び散り、ビン1本まるまる飲み干すなり、元気いっぱい、例の大声量で鳴き始めた。
サーシャは慌てて雛の口と鼻を押さえた。
「ン ン ン ン ン ン ッ !」
頭蓋骨が丸ごと震えているみたいな振動が漏れていたが、それでもしばらくするとコテンと意識を失って、床に寝かせるとさっき飲んだミルクの半分くらいをゆっくりと吐き戻した。雛の口の周りに白い水たまりが広がった。
サーシャはもはや何も言う気力もなく端切れでミルクを拭った。
雛がおとなしくしているうちにサーシャは水を汲み、女用の洗い場で体を洗った。雛も毛皮に包んでそばに置いておいた。目を離した隙に部屋中フンまみれにされては困る。
すると昨日の鑑定さんが何の遠慮もなく入ってきてメモ書きを差し出した。同性とはいえ、それが他人のスッポンポンに絡みにくる態度か?
「クライアントの情報です」
サーシャは目を通した。首都の住所だった。
「ああ、龍研のソフィアだったの」
「お知り合いですか」
「いいえ、名前を知っているだけ。首都なら私もホームだから、都合がいい」
「はあ」
「車を手配してくれますか。
「かしこまりました」
鑑定さんはまだメモを差し出していた。
「ああ、手が濡れてるから、その辺に」
鑑定さんはお辞儀して、雛を包んだ毛皮に容赦なくメモを差し込んだ。
中でびっくりしたように雛がうごめき、サーシャは慌てて駆け寄ったが――
「ピィィィィィィ……!!」
昨日の馭者さんはきっかり1時間後に来てくれた。サーシャはミルクを4本と昼食用のパンを買い、鎧のずた袋と雛の毛皮を荷車に積み込んで馭者さんにお代の金貨を渡した。
街を出たところでサーシャは毛皮をほどいて荷車の幌もめくり上げ、雛が鳴きたいように鳴かせておいた。
屋内で聞けば耳が死にそうな音量も、開けた空間ではさほど気にならなかった。
雛の鳴き声は森を越え、平原に響き渡り、湖の水面を震わせた。
首都まで半日以上の道のり。景色は移り変わった。
「カネになるといいですね」馭者さんが振り返った。
「クライアントが研究機関なんて、むしろ好都合。なんとかして高値で買い取ってもらうわ」
「可愛いんですけどね。小さいうちは」
「メタモーフを見たことがあるの?」
「いや、ドラゴン全般の話ですよ」
確かに乾いた羽毛はふわふわして、生まれたてのグロテスクな感じはなくなっていたが、ギョロっとした青い目は感情を読み取るのが難しかった。たぶんまだ見えていないのだろう。
「可愛い?」
「そうですよ。ちょっと代わってみてくれませんか?」
馭者さんは走鳥の手綱をサーシャに任せて雛を持ち上げた。
雛は何の抵抗もせず鳴き続けていたが、彼女が腕の中にぎゅっと抱きしめると、ふと鳴き止んだ。
「不安だったんでしょうね」
「なるほど、そうすればいいの」サーシャは感心した。
「君も大人になっても鳥みたいにふわふわだったら可愛いのにね」
龍研のご立派な建物は首都中心街の北に面する丘の上にあって、典型的な金髪碧眼のソフィアは学徒用の白いローブをまとって自ら出迎えた。
「座って」ソフィアはロビーのソファに誘った。
「あなたの噂は聞いてるわ。最年少かつギルド加盟最短で1級クエスト完遂」ソフィアは脚を組みながら続けた。
「だから私に頼んだのでしょ?」
「そう。それにしてはしょっぱい結果だとあなたは思ったようね。確かに私もメタモーフの存在は想定外だった。でも失敗は失敗」
「失敗?」
その時開けっ放しの巨大な玄関扉から伝書鳥が入ってきてソフィアの指にとまった。
ソフィアは鳥が背負った筒から手紙を取り出し、すぐに鳥を放した。
「今朝またキャラバンが襲われたそうよ。なぜ? そう、私が頼んだレイはまだ生きてるのよ」
サーシャは声が出なかった。
「メタモーフは普段見ているものにしか変身しない。倒したのがメタモーフだったなら近くに本物もいると思うべきではなくて?」ソフィアはむしろサーシャを追及しようとしていた。
「発注ミスではない、というのね?」
「ええ。残念だけど、違約金は払えない」
「……そう」サーシャはクールに肩を竦めた。
それから雛の毛皮をほんの少しだけ開いて中身をチラ見せした。
「でも幸いなことに収穫がなかったわけじゃないの」
「メタモーフの雛?」
「そう。よくわかったわね」
「見たんじゃないわよ。聞いてたの。……そうね、寄付なら受け取るけど」
「あまり欲しくないの?」サーシャは毛皮の包みを閉じた。
「そんなことないわ。ただね、研究所の規定なのよ。珍しいからといって高値をつけていたら、ここは狩人のギルドになってしまうわ」
「クエストには金を積むのに?」
「あら、それはいいでしょう。こちらで入り口を閉められるのだから」
サーシャは努めて冷静に状況を整理した。素直に振舞うならソフィアにヘッドロックをお見舞いしていてもおかしくない気分だった。
「一番いいのはもう一度山へ行ってきちんとレイを狩ってくることみたいね」サーシャは言った。
「いいえ、その必要はないわ。次の手を打ってあるの」
「次の手、か。案外、私の尻拭いを
サーシャはソファに埋まるくらい脱力した。
ソフィアは事務さんが持ってきたお茶に角砂糖を入れて混ぜ、マドラーを舐めた。
「そうだ、あなたが連れて帰ればいいじゃない? 買い手が見つかるまでの当面じゃなく、きちんと育てるの。時々見せに来てくれればクエストの便宜を図ってもいいわ」
「魔女サーシャ、飼育員になる」サーシャは自分でタイトルを打った。「ギルドに笑われる」
「長期クエストだと思ったらいいわ。ちょっと違うけど、もっと長いスパンでやるのよ。年単位」
「うーん……」
「どうかしら?」
「考えてみよう」
「ところで、メタモーフの雛は見せてもらえないの? 見るだけでいいの」
「いいよ。それで失敗とやらがチャラになるなら」
サーシャは間のテーブルの上に毛皮を置いた。ソフィアの膝や懐に預けるのではなく、あえてテーブルに置いたのだ。
顔を出した雛はぶるっと体を震わせ、首都に入る直前に飲ませた4本目のミルクをちょうど吐き戻した。ちょっとしたミルクの塊がソフィアの白衣を直撃した。サーシャが期待したのは鳴き声だったが、どう見積もってもそれ以上の成果だった。
サーシャは生まれたてのメタモーフのための食事をソフィアに教わって、帰りがけに肉や穀物を買い込み、家のキッチンで丸ごとマッシャーで潰してハンバーグ状に練り、火を通して雛に食べさせた。雛はほとんど咀嚼せずにそれを飲み込んだ。細い喉が膨らみ、その膨らみが胃に向かって下りていくのがあからさまに見て取れた。その間サーシャは雛が鳴かないようにずっと脇に抱えていた。
本気でドラゴンを飼うならこの家は狭すぎるかもしれない。隣人も多い。パティオ付き4階建てのいわゆるマンションだった。
「名前をつけろってソフィアは言ってたわ」サーシャはソファに寝転んで雛を両手で持ち上げた。
腹にはまだハンバーグの形をしたしこりが浮いていて、そこを圧迫しないように気を使った。顔の上に吐き戻されたら最悪だ。
ちょうど胴体と手が同じくらいの大きさ、白い羽毛はふわふわ、嘴のような顎はまだ小指ほどの大きさだった。心拍や呼吸は思いのほかゆったりしていた。
「こういうのは深く考えても無駄なのよ。直感。セラの谷で見つけたから、セラ」
雛は「ピィ」と答えた。それはもう情け容赦のない大声量ではなかった。
「セラ」
「ピィ」
「違う違う。なんか別の意味になってる。……でも、気に入ったみたいだね。これにしよう」
サーシャが手を下ろすと雛はその肘の下に頭を潜り込ませた。きっと親龍の腕や翼の下に潜り込む習性があるのだろう。そうやって守られるはずだったのだ。
「セラ、私になついているのね」
「ピィ」
「でもね、おまえの父親は死んだんだよ。私が殺したんだ」
サーシャはそのことを隠していくつもりはなかった。
そしてこの日を境にサーシャは子育て親龍の狩りをしなくなった。
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