第7場

 ギギが地上へ向けて炎を放つ。橙色の熱線が闇を裂き、地表を撫でるなり炎の壁をそそり立たせる。彼は振り返り、後方へも同じように壁を作った。川の両岸が燃え立つ炎に包まれ、マリアたちは壁の内側に閉じ込められた形となった。

 人間たちは、皆一様に動きを止めている。翼竜の火力に呆然としている者、己の置かれた状況を理解しようと努める者。少なくとも、殺戮を続ける者の姿は見られない。

 上空から声が降ってくる。

「北限の竜の名に於いて命ずる」ギギの、今まで聞いたことがないほどの低い、唸るような声が辺りに響き渡った。「これ以上の無益な争いは止めよ、人間たち。同族同士で殺し合って一体何になる」

 鱗が炎の明りを受け、ギギは身体中に橙色の光を纏っている。まさに炎の化身ともいうべき姿である。

「もし、この炎が収まった後も争いを続けるというのなら、貴様ら双方の住処を焼き払う。我ら竜の全ての力を以てして、人間世界の何もかもが灰燼に帰すことだろう」

「ギギ……」空に羽ばたく翼竜を見上げたまま、マリアは呟いた。

 近くで、草の上に鉄の塊が落ちるような音がした。振り向くと、ジョルジュが武器を放棄していた。

 ジョルジュは空に向けて呼び掛けた。

「竜よ、ベレヌス国王の名に於いて、私は武器を捨てることをここに誓う」それから彼は近くの魔道士を呼び寄せ、拡声魔法によってベレヌス全軍への武装放棄を呼び掛けた。

 炎の内外から、武器を手放す音が雨垂れのように聞こえてきた。

 だが、テウタテスの兵たちは、未だ惑ったように剣の柄を握りしめていた。そこへ、拡声魔法で拡大された声が響いた。

『我々も誓おうではないか』将軍の声である。張りはないが、喋れる状態にはあるようだ。『丸腰の者を相手にしては、それはもはや戦ではない。我々は虐殺者ではなく戦士なのだ。武器を収めよ。これ以上、隣人たちと戦う理由はない』

 テウタテス兵たちが次々に、剣を鞘に収めていく。やがて、誰の手からも武器が消えた頃、炎の壁もなくなった。

「我らは常に見張っている」ギギが言った。「お前たちが再び武器を取った時、お前たちは帰る場所を失うことだろう。それを決して忘れるな」

「必ずや」

 ジョルジョの返答に、ギギは重く頷いた。

 空に留まっていた竜たちが、次々に飛び去っていく。最後まで残ったギギに、マリアは声を掛けた。

「あなたは、これで良かったの?」

「僕が君たちにしたことを思えば、これぐらいでは足りないよ。けど、こうする他に、贖う方法がわからない」

 マリアは頷いた。たしかに、あの夜に消えてしまった命はもう戻らない。その事実は無視するわけにはいかない。

「だけど、失われる筈だった命を、そして、生まれることがなかったかもしれない将来の子供たちを守ることは出来ました。それもまた、確かな事実です」

「君がそう言ってくれただけで、十分だ。十分過ぎるくらいだよ」

 ギギが身を翻した。

 最後に一つ、マリアの胸に問いが浮かんだ。だが彼女は逡巡した末、それを呑み込んだ。代わりに、別の言葉を述べた。

「あなたはわたくしたちの恩人です。どんなに御礼の言葉を重ねても、足りないぐらいに」

 ギギは頷いた。

「僕の方こそ。君には感謝をしてもし尽くせない」

「お元気で、ギギ」

「元気で、マリアンナ」

 鎧の触れ合う音が近付いてきた。ジョルジュがやって来たのかと思ったが、夫の声はもっと遠くから聞こえた。彼女を呼ぶ声だった。

 振り向く前に、後ろから何かがぶつかってきた。

 同時に、冷気と熱を併せ持った硬さが、背中から腹を貫いた。

 肩越しに、ノルマントの血と泥で汚れた顔が見えた。続いて彼女は、己の腹部から伸びる刃を見下ろした。

 白く光る剣先が、赤黒い血で濡れていた。

「売国奴に天罰を!」ノルマントが言った。「親子揃って同じ愚を犯しおって」

 喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、吐き出した。血であった。

「あなたは……父を……」マリアは振り向こうとしたが、上手く首が回らない。

「全てはベレヌス王国のためである」

 ノルマントの言葉にジョルジュの叫びが重なり、刃が引き抜かれた。マリアは立っていられなくなり、その場に崩れた。

 すぐさま抱き起こされ、傷口にジョルジュの手で軽魔法を掛けられる。痛みは和らいだが、根本的な苦痛は取り除かれないままだ。衛生兵を呼び寄せる夫の声が、遠くに歪んだ形で響いていた。

 何人かの兵士が駆け寄ってきた。魔道士のローブの色は、テウタテス軍のものだった。小さなタクトを揮い、治癒魔法を詠唱し始める。

 掛けられた魔法は先ほどよりも重かったが、やはり楽にはならなかった。

「魔法では応急処置にしかなりません。早急に、設備の整った場所で治療せねば」テウタテスの衛生兵がジョルジュに言った。

 ジョルジュは頷いた。それから、周囲にいた自軍の兵に向けて言った。

「王妃殿下を王都へお連れする。馬の用意を。一騎だけでいい」

 ギギが降下してくるのが見えた。大きな影が傍らに降り立ち、覗き込んできた。

「彼女を背中に」ギギが、ジョルジュに言った。「私が連れて行く」

「あなたが?」マリアを抱えるジョルジュの腕に、力が入った。

 マリアには、夫の気持ちがわからないでもなかった。王都を焼いた翼竜の飛来を目にした民の心情を慮れば、二つ返事で頼むわけにはいかない。

「ギギ、お願い」マリアは翼竜の角に手を伸ばした。「わたしを、あなたの背中に乗せて?」

「王妃!」

「事の責任は全てわたくしが負います。どうかご容赦を」マリアは身を起こしながら言った。「彼の背中に乗る手伝いをお願い出来ますか、ジョルジュ様?」

 ギギが頭を垂れる。低くなった背中に、ジョルジュの手で押し上げられた。

 一緒に乗り込もうとする夫を、マリアは制した。

「一人で大丈夫です。陛下は、軍の撤退を指揮して下さい」

「しかし……」

「竜に魂を売った悪魔どもめ!」

 声が聞こえた。両軍の兵によって草の上に組み伏せられたノルマントである。

「我らは人間なるぞ! 神より知恵と魔法を賜った、崇高な存在なのだ! 化物の前に跪くなどあってはならぬ!」

「彼も、連れ帰ってください」歯を食いしばる夫に、マリアは言った。「ここで彼を斬っては、わたくしたちはまた同じことを繰り返してしまうわ」

 ジョルジュはしばしの間を置いてから、「すぐに追い付きます」と言った。

 マリアは微笑み、頷いた。

 ギギが羽ばたき、地上を離れる。その背中から、マリアは夫の姿を見つめていたが、程なくして地上は闇の中へ没した。

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