第6場
マリーは何か言おうとして思い止まり、やはり口を開き掛けてから噤むのを繰り返していた。そうやって、ついに口を突いた言葉が、「これが人間なのです」というものだった。
「人間は無知で臆病です。だから、色々なことを間違える」けれど、と彼女は続けた。「どうか焼き払うのだけは思い止まって。こんな姿を見せておいて、許せというのは傲慢かもしれないけど、彼らも誰かの子であり、夫であり、父なのです」
マリーは胸の前で両手を組み合わせている。人間たちが、神に祈りを捧げる時にする仕草だ。神と決別して久しい竜には、出来ぬ格好でもある。
そんな彼女の手首で、ぼうっと光るものがあった。
呼応するように、ギギの鼻先でも角が仄かに光を帯びた。じんわりと、微熱のようなものも感じられる。
熱は、熱としてだけでなく、別のものもギギにもたらした。
感情。それも、ギギの内から生じたものではなく、他の誰かが抱えているらしきものが、外から流れ込んでくるのだった。
誰のものかは、考えるまでもなかった。
「マリー」ギギは、眼下の彼女に問うた。「君はどうして、そこまでして彼らの肩を持つんだい?」
答えはわかっていた。納得出来る出来ないに関わらず、彼女がどういった気持ちを抱いているかは、否応なしに知らされた。
「わたしも、彼らの娘であり、妻であり――母だから」
ギギはハッとした。自分の前にいる彼女が、自分の記憶にある〈夢の中の少女〉よりも大人びていることを、今更ながら強く思い知らされた気がした。今の彼女は「少女」ではなく「母」の顔つきをしていた。
マリアンナ、と彼は口の中で呟いた。
流れる月日の中で、彼女は着実に、あの湖で出会った頃と変わったのだ――。
喉の奥に、詰め物をされたような苦しさを覚えた。谷の水溜まりで、水面に映る己の姿を目にした時にも、同じ感じがしたものだった。
彼は自問する。
自分はどうだ。竜の頭領として、相応しい男になっているのだろうか。流れた時の分だけ、成長はしているのだろうか――。
不安を振り払える自信はなかった。自分は少しも前進していないという実感さえあった。
「そんなことないわ」
声がした。
「マリー……?」
彼を見上げ、マリーは微笑んでいた。
「とても立派な角が生えたじゃない。まるで、竜の王様みたい」
その笑みは、どこか寂しげでもあった。
ギギは、己の誤解に気付かされた。彼女は何も変わってなどいない。ただ、その時に自分が為すべきことを、どうにかこなそうとしているだけなのだ、と。
少女は必死で、民を統べる人物を演じていた。
それで良いのだ。
簡単に変わらないのなら、変わらない自分を逃げずに受け止めてやれば良い。中心は元の姿を残したまま、外側の鱗だけを繕えば良い。
たとえば軟弱な人間の姿でも。
たとえば雷に怯える臆病者でも。
誰であれ、一皮剥けば、中には〈あの頃の自分〉が隠れている。それは悪いことではなく、当たり前のことなのだ。人によって差があるとすれば、余程隠すことが上手いか、当人が忘れているかのどちらかだ。
ギギは頭を下ろし、マリーに顔を近付けた。
「君と仲良くなれたのは、君と僕が似ているからなのだろうね」
マリーは肩を竦めた。
「わたしは一目見た時から、あなたとお友達になりたいと思ったわ」
「質問攻めに遭った覚えがあるよ」
「そうだったかしら」
二人は声を合わせて笑った。
「ありがとう、マリー」ギギは言った。「君のお陰で、僕は自分がどちらへ飛ぶべきか知ることが出来た」
「わたしの方こそ」と、マリーは角に手を添える。「温かい……。あの時と同じだわ」
「あの時?」
するとマリーは、左手の腕飾りをギギに掲げて見せた。
「それは……」
「あなたの角の欠片。お城の地下で見つけたの。抱えてみたら、やっぱり温かかったわ」
「あれは今まで散々な思い出でしかなかったけど、少しはマシに思えるようになるかもしれない」
「あら、少しだけ? わたしたちが知り合うきっかけになったというのに。それに、今ではもう立派に生え替わってるじゃない」
「ここまで長かったんだ」
ギギは鼻先を夜空に向けた。僅かにだが、明るくなりかけている。
「マリー」
「なに?」
「君に見せたい景色があるんだ」
「まあ、どんな?」
「とても美しい景色だ」そう言って、ギギは翼を広げた。「でも、その前にやらなくちゃならないことがある」
マリーの問いを掻き消すように、羽ばたいた。地面を離れ、ぐんぐん上昇していく。少しもしないうちに、ギギは戦場を見下ろせる高さまで上がってきた。
彼は口を開いた。
その口腔の奥では、真っ赤な炎が燃えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます