第3場
停止を呼び掛ける声が、闇の向こうから響いてきた。敵軍の士官が拡声魔法を使ったのだろう。
『これは警告である。直ちに停止しない場合は、攻撃を加える』
ノルマントが肩を竦める気配があった。
「この辺で良いでしょう。おい」
宰相の合図に、馭者は馬を停めた。
マリアは馭者の方へ近寄った。
「あなたは逃げて下さい。この場にいては、いずれにせよ碌な目には遭いません」
「あ、ありがとうございます」
彼女の言葉を待っていたかのように、馭者は地面へ落ちると、転がるような足取りで闇の中へと消えていった。
横目で見送っていたノルマントが言った。
「これで貴女は逃げる術を失った」
「元より逃げるつもりなどありません」
「さいでございますか」
「あなたも逃げて構いませんよ、ノルマント?」
「竜が見えたら引き返しますとも」宰相は腰のサーベルを抜いた。「それまではお側におります」
サーベルの刃が、白く光っていた。
マリアはノルマントの眼を見据えた。
「残念だけど、彼は来ないわ」
「何?」
「夢の中で、来るなと言いましたもの」
「貴様……!」ノルマントが歯噛みする。
「わたくしはこのまま投降し、停戦を申し入れます」
「檻に入ったままで何が出来る」
するとマリアは胸の前で両手を組み合わせ、拡声魔法の呪文を唱えた。かつて少しばかり教わった軽魔法のうちの一つであった。
『テウタテス軍に告げます。こちらはベレヌス王国王妃、マリア=レ=ベレヌスです』
「止さぬか!」
ノルマントが格子の隙間からサーベルを突き刺してくる。マリアはそれを避けながら、テウタテス軍に向けて交渉の意思がある旨を呼び掛けた。
『これ以上、無用な血が流れることは望みません。それはあなた方とて同じ筈。どうか、話し合いの機会を設けていただけませんか』
錠の壊れる音がして、扉が開いた。乗り込んできた宰相が、マリアの髪を掴んで格子に押し付けた。拡声魔法は解除された。
「狂人め。やはり王国を滅ぼすつもりであったか」
「これ以上、民を無益な戦いに巻き込むというのなら、父の治めたベレヌス王国はもう滅んだも同然です」
一層強い力で押さえ付けられる。
「国は王族の所有物ではない。臣民の、臣民による、臣民のためのものだ。たとえ王家が潰えようと、民がいる限りベレヌスの御旗は残り続ける」
「旗のために人々を苦しめても良いと、何故考えられるのです」
「国家のために身を賭すのは、そこにいる者の義務である」
「苦しみを強いる国家など、ない方がマシよ」
「その言葉、王国に対する反逆と受け取ろう!」
マリアは奥歯を噛み締めた。父の遺した王国は、たしかに死んだ。やはり自分には守り切ることが出来なかった。父にはどんなに詫びても足りない。父だけじゃない。母や、祖先たちにも会わせる顔がない。自分は、父祖たちが代々守ってきた「王国」を、この地上から亡くしてしまったのだ。
せめて出来ることといえば、溢れ出ようとする泪を堪えるぐらいであった。少なくとも、ノルマントの前で落涙するわけにはいかなかった。
いつの間にか、河の向こう岸に灯りが集まっている。金属の触れ合う音は、武具の立てるものだろうか。規模は定かではないが、テウタテス軍の兵たちが闇の中に集結しているようだった。
先ほどよりも近い位置から、拡声魔法の声が聞こえてきた。
『交渉の申し入れ、確かに受け取った。返答は参謀本部での検討の末、お伝えする。しばし待たれよ』
返事をすることは、マリアには許されない。彼女はもはや、まともに呼吸をすることすらままならない状況に陥っている。
「おお、マリア!」ノルマントが声を震わせながら言った。「いや、マリー。貴様はいつまで経ってもマリーのままだった。その幼稚さがどのような結果をもたらすか、己の眼を見開いて頭に焼き付けるが良い」
ノルマントのサーベルに火が灯った。火は刃先へ集約され、火球を形作る。宰相はサーベルを振り上げ、火球を頭上へ打ち上げた。球は、まさしく花火のように夜空に咲いた。尤も、目を楽しませるような類いのものではなかった。どちらかといえばそれは、何かの合図のようであった。
背後の丘から火線が走る。線の延びていった先は川向こうだ。目が追い付く前に、向こう岸で火柱が上がった。その後も丘からは、次々に炎の線が延びていく。
テウタテス軍はあっという間に混乱の坩堝に呑まれた。叫びや悲鳴に混じって、マリアを罵る言葉も聞こえてきた。それらを塗り潰すように、間近で高笑いがした。声の主は、確かめるまでもなかった。
丘を、いくつもの鎧の音が、鬨の声と共に駆け下りてくる。ベレヌス軍の兵たちが武器を構え、濁流となって檻の両脇を通り過ぎていく。
「やめなさい!」マリアは叫ぶ。だが、叫びは誰にも届かない。「やめて! お願い!」
向こう岸からも魔法の光が飛んできて、ベレヌス兵たちの間で炸裂する。轟音、熱風、土埃。千切れた金属片や、何かの焦げる臭いも漂ってくる。
両軍が河の中でぶつかり合う。大河は、川幅こそ広いものの、最も深い場所でも大人の腰丈ほどだと聞いたことがある。平時ならば舟を使うのだろうが、不意に訪れた闇夜の戦とあっては、己の脚で渡った方が早いと兵たちは判断したようだ。彼方此方で、水を撥ね散らす音が聞こえる。
「何てことを……」マリアは呻くように言った。
「素直に竜を呼んでいれば、こうならずに済んだのだ」
マリアは格子を握る手に力を込めた。
その時であった。
戦場のそれとは別の音が、夜空に響き渡った。それはあたかも、何か動物の鳴き声のように聞こえた。
「竜だ!」兵の一人が、空を見ながら言った。
マリアもどうにか首を回した。
遠くの空に、星の瞬きに混じって飛ぶ、翼竜たちの群れがあった。
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