第6幕

第1場

 目を覚ますと、辺りは宵闇に包まれていた。

 マリアはまだ、馬車に揺られていた。振り向くと、同道の者たちが手にする篝火が点々と浮かんでいるのが見えた。

 暗さに眼が慣れるにつれ、空の星が増えていった。雲に隠れることもなく、地上には大した灯りもないものだから、星空の方が明るいぐらいだった。

 さわさわと草の揺れる音がして、冷たい夜風が頬に当たる。馬車は、草原の只中を進んでいるらしい。自分が戦地へ近付きつつあるのが嘘だと思えるほどに静かである。どれだけ耳を澄ませても、彼女が属する隊列の立てる音しか聞こえない。

 マリアの耳はまた、翼竜の咆哮を探してもいた。彼女は夢の中で、ギギに言葉を掛けた。あの夢が、ノルマントの期待する類いのものだったとすれば、自分の気持ちは竜の青年に伝わった筈である。もし単なる夢ならば、何も気に病むことはない、翼竜が来ることはなく、彼女は檻に入れられたまま、敵軍の前に置き去りにされる。

 これでいい、とマリアは胸の内側で呟く。これが、誰も傷つかずに済む、ただ一つの道なのだ。


 やがて馬車は野営地へ到着した。大きく焚かれた橙色の火が、テントや兵士たちを照らしていた。影を揺らめかせるそれらはいずれも草臥れていた。炎が消えれば、そのまま闇に溶けてしまいそうである。

 テントから出てきたジョルジュもまた、例外ではなかった。久しく会わぬうちに、彼は数十年分も歳を取ってしまったようだった。

 馬車を見上げたジョルジュは目を瞠った。少なくとも、喜びによるものではなかった。

「何故、王妃がここにいる」彼はノルマントに訊ねた。

「王国を救うためにございます」馬から降りながら、宰相は答えた。

「兵たちの前で檻になど」

「殿下の御身を守るためにございます」ノルマントは出発の時と同じことを言った。

 マリアも宰相に訊ねる。

「陛下は何も御存知ないのですか?」

「伝令は使わした筈ですが」

「私は聞いていない」

「それは大変な失礼を」

 胸に手を充て、ノルマントは頭を下げた。それから、マリアをここまで連れてきた理由を掻い摘まんで話して聞かせた。説明は、話者がそうする必要を感じていないのが端にも伝わってくるほど、簡素なものだった。

 それでも、ジョルジュを青ざめさせるには十分な威力を持っていた。話を聞き終えた時、彼は跳ぶように距離を詰め、宰相の胸ぐらをねじり上げた。

「貴様、王妃殿下を何と心得る! これは不敬罪、いや、明確な反逆罪であるぞ」

「心外でございます、陛下。某は王国の勝利のためを思い、このような行動に出た次第です。ベレヌスが今の窮状を脱するには、手段を選んでいる場合ではないのですぞ」

「だからといって王妃を檻に入れるなど、狂っている」

「陛下は夢をご覧になられたのでしょう? 王妃殿下と竜の、逢瀬の現場を。だから殿下を牢へ入れたのではないですか」

 ジョルジュは口ごもった。頷いたようなものだった。彼は、檻の中でやり取りを眺めていたマリアに眼を向けてきた。

「貴女はそれで良いのですか、マリア?」

 するとマリアは夫の目線から逃れるように眼を伏せ、

「長きに渡って人々を謀ってきた罰です。その償いが出来るのなら、わたくしはどうなっても構いません」

 それに対する言葉はなかった。ただ、息を呑むような音が聞こえただけだった。

「時は急ぎます」と、宰相は相手の腕を解きながら言った。「失礼ながら、このまま出発いたします」

 ジョルジュに止める隙も与えないように、ノルマントは出発の号令を掛けた。

 馬車が再び動き出す。立ち尽くすジョルジュの虚ろな眼差しが、橙色の明かりを受けて闇の中に浮かんでいた。

 ごめんなさい、とマリアは口の中で呟いた。何に対する謝罪なのかは、彼女自身にもわからなかった。というより、言葉の矛先は一点ではなかった。ジョルジュの全てに、そして、彼の向こうに控えるベレヌス王国の全てに対する謝罪の言葉であるようだった。


 野営地を抜けた一行は、緩やかな斜面を登り、丘の頂上に辿り着いた。

 眼下には、星空とまではいかないものの、光の粒が輝いている。水面である。隣国との間を流れる大河のものだ。そこから目を転ずれば、闇の中に、こちら側にあるのと同じような篝火の灯が点在している。テウタテス軍の野営地なのだろう。

 見晴らしが良く、他の場所よりも小高い。竜を呼ぶにはうってつけかもしれない。

 ノルマントが馬を動かし、横に来た。

「眠りの中で、竜とはお会いになれたのでしょうな?」

「ええ」

「結構。これで王国は救われますぞ」

 するとノルマントは、馬を出すよう馭者を促した。

「まだ行くのですか?」

「敵陣には近ければ近いほど良いのです」ノルマントも自身の馬に鞭を入れた。「武器さえ構えなければ、急に矢が飛んでくることもありますまい」

 一転して、今度は下り坂を下りていく。

 馬車についてくるのは、ノルマントの騎馬だけである。宰相がそれを気に留めた様子はない。今や彼の頭は、翼竜をこの地へ呼び寄せることで一杯のようだ。翼竜の吐く炎によって、敵軍が焼き払われることで。

 マリアは腕飾りに触れた。そして胸の中で、必死でギギに呼び掛けた。

 お願い――。

 もしこの声が聞こえているのなら。

 ――。

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