第4場(1)
またしも〈果てのない湖〉にいた。
湖面に映る己の姿は、例によって人間のものである。本来の自分とは似ても似つかない姿だが、不思議としっくりくる。その理由は、何遍見てもわからないが。
周囲に目を走らせると、遠くに小さな影を見つけた。近付かずとも、それが何であるのかギギは知っていた。再びこの夢を頻繁に見るようになってから、ここで起こる事象は、全て同じ形式に則っていた。
蹲る少女は、今夜も肩を震わせている。その泪の理由は、やはり平原で繰り広げられる戦にあるのかもしれない。
普段であれば、遠巻きに眺めているだけで目が覚める。だが今日は、考えるより先に足が動いた。ギギはたぐり寄せられるように、少女の背中へと近付いていく。段々と、くぐもった嗚咽が耳に届いてきた。
少女は尚も蹲ったままである。ギギは今にも手が届きそうな位置にある背中を見て、彼女が初めて会った頃から変わらぬ姿であることに気が付いた。現実世界で対面した時は、もう少し背が高く、大人びていた。それでも、風になびく黄金色の艶やかな髪が、夢で会った彼女であると証明していたのである。
そこまで考えて、ギギはこの夢の仕組みについて或る仮説を立てた。ここでは誰もが、本当の姿を晒すことになるのではないか。臆病な自分は軟弱そうな人間の男に。天真爛漫だった彼女は、少女の姿に。ここでは心のありようが、そのまま外見になるのではないか。
だとしたら、放っておくわけにはいかない。
だが、ギギの足はそこで停まった。或いは別の何かが、彼を立ち止まらせたのかもしれない。ここから先に進むか否かの判断が、急遽ギギの方へ回ってきた。
関わるべきではない、と右耳の中で声がした。自分の声だった。
放っておくわけにはいかない、と左側で聞こえた。こちらも自分の声だった。
片方は、頭領になった自分である。もう片方は、夢の中とはいえ無邪気に人間の少女と語らっていた頃の自分だろうか。どちらかに加担せよと言われても、決断し難い。どちらも等しく自分であり、また、どちらも等しく自分とは遠い存在であった。
遠くの方で唸るような音が聞こえた。雷鳴だ。顔を上げると果たして、水平線の上の空が一部分、鼠色に染まり、チカチカと瞬いている。
この場所で初めて見る青空以外の空模様に気を取られていると、声が聞こえた。名前を呼ばれたのだ、と遅れて気付く。誰に? 辺りを見回すまでもなく、ここには彼と少女しかいない。
「ギギ……?」蹲ったままの少女が言った。
ギギは口の中が渇ききっていて、呻くことすら出来なかった。今の彼に為せることといえば、少女が顔を上げ、彼の存在に僅かでも喜びの色を浮かべるのを期待することのみであった。
少女は言った。
「お願い、帰って」
言葉の意味が、一度で理解出来なかった。頭が理解することを拒んだ。
「そのまま立ち去って」顔を伏せたまま彼女は言う。「こっちへ来ては駄目。またあなたを哀しませることになる」
どういうことだ、マリー?
しかしその問いが発せられることはなく、視界はどこからか漂ってきた霧に包まれた。彼女の背中も、濃霧の向こうへ掻き消えた。
ギギはそれまで閉じていた瞼を開けた。目の前には湖面と空とはほど遠い、無骨な岩肌が広がっていた。
洞穴に戻ってから、知らぬ間に午睡してしまったらしい。
「マリー……」今度はすんなり声が出た。皮肉を感じながら、彼は身体を起こした。
外からは遠雷の音が聞こえる。雨雲が近付いているらしい。そういえば、夢の中でも遠くの空が光っていた。
マリーは今頃どうしているだろうか。確かめようのない問いが浮かんだ。そんなことを考えたところでもどかしさを募らせるだけだとはわかっているが、頭の中は彼女に関する事柄で埋め尽くされていく。
首を振っても無駄だった。いても立ってもいられなくなり、彼は洞穴の入口へ向かった。
湿った風が吹き付けた。雨のにおいがした。
不意に、疼きを覚えた。とめどない思考が原因かと思われたが、出所は頭とは別の所にあるようだった。
頭にほど近い場所。
鼻。
鼻先。
折れたままの角の根元に、違和感の正体は潜んでいるようである。
角がなくなり、見通しが良くなってから長い時間が経った。今ではすっかりこの視界に慣れ、そこに角があったことすら忘れかけていた。
直接対面した時の、マリーの姿が蘇る。彼女はギギの方へ手を伸ばしかけた。触れようとしたのだ。だがギギは、それを拒んだ。拒絶したかったわけではない。怖れたのだ。その恐怖の正体が、今ならわかる。
同じだ、自分たちは。姿形さえ違えど、その内面には同じものを抱えている――。
次いで「会いたい」という確たる想いが浮かんできた。いつか叶えば良いというような、運任せの薄く漠然とした願いなどではない。胸の内側の炎が、鱗の隙間から漏れ出すほどの大きな願望だった。
彼女に逢いたい。
竜として。
いや、一人の、心を持つ者として――。
途端、鼻先の疼きが痛みに変わった。悲鳴を上げる間もなかった。痛みは天井を突き抜け、感覚が失われた。
地面から何かが突き出してきた。一瞬、そんな錯覚に囚われた。視界の真ん中が、柱のようなもので大きく塞がれていた。それは地面から生えてきたものではなく、ギギの鼻の頭に根を張っていた。
様々な疑問が一挙に去来して、通り過ぎていった。だがギギは、考えるのを止めた。今は考えるより先にやるべきことがあった。
彼は地面を蹴った。
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