第2場
ギギは再び〈果てのない湖〉に立つ夢を見るようになっていた。父が死に、頭領の座に就いて、しばらくしてからのことである。
そこにはマリーの姿もあった。だが、ギギが彼女と言葉を交わすことは一度もなかった。
彼女は泣いていた。水の上で蹲り、小さな肩を震わせているのである。ギギは何度も声を掛けようとしたが、どうしてもあと一歩が踏み出せなかった。彼女の背中から勝手に拒絶の色を感じ、いつも踵を返してしまうのだった。
目覚めた時の「次こそは」という想いも、夢の中までは持ち込めなかった。
岩場から臨む地上の様子は、日々変化していた。
人間同士の争いは止むことなく繰り返され、終息に向かうどころか反対に激しさを増すばかりだった。それも、よく眼を凝らすと、拮抗していたかに見えた双方の戦力は次第に傾きが生じ始め、今では河向こうからやって来る軍勢の攻撃が派手派手しくなっている。一方、防戦を強いられるこちら側の軍勢はじりじりと後退しており、今や戦の火は河からだいぶ内陸で見られるようになっていた。
そうした劣勢に置かれた軍勢というのは、或いはマリーの同胞たちかもしれなかった。彼らが、かつてギギがマリーと出会った(そしてその大半を焼き尽くした)〈都〉から出ていくところも、ギギはこの岩場から見ていた。
マリーの身に、刻一刻と危機が迫りつつあるのではないか。地上で繰り広げられる戦闘を見ながら、ギギの頭はそんな考えで満たされた。
「短い寿命でよくやるよな」
振り向くと、ビビがいた。彼女は引退した父の跡目を継ぎ、副頭領としてギギの補佐役に就いていた。
「そんなに気になるのか、人間たちのことが」
「そんなんじゃないさ」言いながらも、目を地上へ向けてしまう。
「人間とは関わらないって言ったくせに」ビビが隣へ来た。
「あの戦が終わったら、次はこっちに来るかもしれないから……」
「その時はその時で考えれば良かったんじゃないのか?」
ぐう、とギギは唸りそうになるのを堪えた。そして、
「頭領は先を読んでおく必要があるんだ」
「へえ。変わったな。そういえば、『立場が人を作る』って東の岩場のじいさんも言ってたっけ」
それきり、ビビの言葉は途絶えた。
雲を押し流す風の音に混じって、戦の音が微かに聞こえる気がした。人間たちは自らを鼓舞する際に雄叫びを上げる。自分たち竜も、狩りに出る際には咆哮する。似ている、と思う。姿形こそ違えど、戦いを恐れる心というのは同様に持っているし、もしかするとそれは同質のものなのかもしれない。
「人間に捕まった時さ」
ビビの声が思考に差し込まれた。ごく自然で、ギギの物思いの延長のようだった。
「あいつら、あたしのこと殺そうとしてたけど、一人だけ助けてくれた奴がいたんだ」
初耳である。ギギが顔を向けると、ビビは横顔のまま続けた。
「他の連中からは『女王』って呼ばれてた。あいつからはギギのにおいがした」
「女王……」王というのが、谷でいうところの頭領に当たるとギギは聞いたことがあった。
ビビを助けに行った晩、石造りの集落の、最も高い場所にマリーは立っていた。そんな所にいられるのは、一握りの選ばれた者のみだろう。王……。それでなくとも、彼女が何か特別な地位に就く人間である可能性は、十分に考えられる。
「あの戦、河向こうの側が攻め込んできたら、彼女はどうなるのかな」
ビビの言葉はしかし、問い掛けではなかった。それがわからぬギギではない。
「僕たちにはどうすることも出来ない」ギギは首を振った。「何も出来ないし、何もするべきじゃない。人間の世界に、わざわざ首を突っ込んではいけないんだ」
そして下界へ背を向け、水溜まりへ向かう。
ふと、岩の隙間から生える黄色い花が目に付いた。久しぶりにその花を見た気がした。変わらずそこにあったのかもしれないが、少なくとも、ギギの意識の埒内に入ってきたことは久しくなかった。花は、風に揺れていた。
「だったらどうして」と、ビビが言った。「いつもここで地上を眺めてるんだ?」
返事が出来ない。花に気を取られていたから、というばかりではない。
「地上に気になる何かがあるんだろ? あの戦とも関わっている何かが」
ギギは牙の隙間から呻きを漏らした。
「あたしにはそれが何なのかわからないけどさ、でも、ギギが行きたがっていることだけはわかるよ。伊達に生まれた時から一緒じゃないんだぜ」
「ビビ……」
「頭領だって、たまには我儘言っても良いんじゃないか?」
胸の中で渦を巻く靄が、微かに解ける気がした。身体が軽くなり、思わず飛び立ってしまいたくなる。
だが、自制心の方が勝った。
自分はもう決めたのだ、二度と人の世には関わるまい、と。所詮、竜と人とは交わり得ぬ関係なのだ。相まみえれば、攻撃し合う他に道はない。そんなことでは、わかり合うことなど到底出来はすまい。互いに不幸になるしかないのなら、初めから関係など持たぬ方が良いに決まっている。無関係。没交渉。それが、竜にとっても人間にとっても、最良の選択なのである。
ギギは水溜まりに鼻先を付けただけで、その場からも離れた。
「僕は何も思っていないよ。本当にただ、戦を終えた人間たちがこっちへやって来るかどうかを注意してただけだ」
そう言い残し、彼は岩肌を蹴った。翼を広げて風を捉え、ぐんぐんと上昇する。ビビの声が聞こえたが、それも振り切り、流れる雲を目指した。
これで良い、と胸の中で呟いた。これが一番良いのだ、と。
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