第1場(3)
良く言えば丁重に、悪く取れば四方を厳重に取り囲まれながら、マリアは宰相の執務室へと向かった。久しぶりに見る空はしかし曇天模様で、目に映る全てのものがくすんで見えた。
近衛兵が扉を叩き、マリアの来訪を告げた。中からのくぐもった返事を受け、マリアは中へ通された。
部屋の真ん中にノルマントが立っていた。胸に手を充て、低頭している。王国式の敬礼である。恭しい、と鼻白む思いを抱えたまま、マリアは部屋の中へ踏み入った。顔を上げたノルマントは、近衛兵たちに外で待機するよう命じた。
「ご足労、感謝申し上げます」
マリアは返事せず、小さく頷くに留めた。そんな彼女を宰相はソファーへ案内した。
「お変わりありませんようで、安心いたしました」
「そういうあなたは随分と痩せたようですね」ソファーに腰を下ろしながら、マリアは言った。頬に影を刻んだノルマントは、「痩せている」というより「やつれている」と表すべきだった。
戦況が思わしくないことは、相手の顔色から十分に伺うことが出来た。故に、わざわざ改めて問うような野暮はしなかったが、どうしても気になることは訊かずにおけなかった。
「国王陛下は、まだ戦場におられるのですか?」
「前線で指揮を執っておいでです。ご帰還を進言したのですが、聞く耳を持たれず……」
ノックが聞こえ、メイドが入ってきた。ティーセット一式を持ってきた彼女が粛々と茶の用意をする間、マリアは今も戦場を駆け回っているであろうジョルジュの姿を思い浮かべた。恐らく彼は、最後の一兵にでもならない限り、戦場を立ち去ることはないのだろう。王都が焼かれたあの晩の、自分を救ってくれた彼の行いを思い返せば、それが彼の性分だということは理解出来る。
湯気を立てるティーカップが、マリアの前に置かれた。ノルマントの前にも同じ物を残し、メイドは部屋を出て行った。
「それで、わたくしに何用です」マリアはカップに手を付けないまま訊ねた。「人払いをしてまでしたかった話とは?」
すると湯気の向こうで、ノルマントがやつれた顔を前へ幾分突き出した。
「率直に訊ねます。殿下はまだ、竜との交信を続けておられますか?」
その問いに、マリアは無意識のうちに身体を強張らせた。
「そのようなことをした覚えはありません」
「夢の中で言葉を交わし合ったことはありましょう?」
「あくまで夢の中の出来事です」
「いえ、今更責め立てるつもりはありません。竜の身体の一部、例えば角や爪と共に眠った者は、睡眠中にその持ち主と心を通わせることが出来るという古い言い伝えがあるようですね。私も司祭から話を聞き、初めて知りましたが」
マリアは相手の視線が己の手元に注がれていることに気が付いた。彼女は左の手首に手を添えていた。
「私も迂闊でした。全ては十年前のあの日から、既に始まっていたのですね。あの晩、地下倉庫で破壊された竜の角――。その腕飾りは、あの時の破片なのでございましょう」
マリアは唇を結んだまま俯いた。向かいではノルマントが、紅茶に口を付ける音がした。
「一つ、お聞かせ願えますか」ノルマントはソーサーにカップを置きながら言った。「あの惨劇の夜、竜を王都に呼んだのは貴女なのですか?」
「それは違います」マリアは面を上げた。「わたくしはあの時まで、彼が翼竜だなどとは知りませんでした。知っていたとしても、どうしてわたくしが王都を焼かせる必要があるのですか」
「貴女は参っておられた。傍目にも、気の毒なほどに」
「たしかに疲れてはいたかもしれません。けど、だからといって、民を巻き添えに何もかもを壊そうなどと考えるほど狂ってはいません」
「だが竜に縋った。夢の中で、心を通わせたいと願った」
「わたくしはあの夢を、単なる自分の欲望の形だと思っています。あそこで会った彼――翼竜は、わたくしが『現れて欲しい』と願ったものが人の形をして出てきたものなのだと」
「本当に、そう思われますか」ノルマントは茶器を卓に戻した。「貴女が長年に渡って見てきたその夢が、本当にただの夢であると?」
ジョルジュが同じ夢を共有している以上、言い逃れは出来ない。あれはやはり、ただの夢などではない。それは誰あろう、マリアが一番よく知っていた。
彼女はカップに手を掛けた。口に近付けるまで、紅茶がすっかり冷めてしまっていることに気が付かなかった。唇を湿らせただけで、カップを元に戻した。食器の触れ合う音がやけに大きく聞こえた。
「如何なる罪も、甘んじて受けます」マリアは言った。「自害しろというのなら、この場で毒も呷りましょう。それが王国のためになるならば」
「いえ、その必要はありません。むしろ、そうされては困るのです」
マリアは眼差して問うた。
「竜との交信は、少なくとも私には、やはり災いを呼ぶための奇行としか思えません。ですがその行いが、皮肉にも王国の窮状を救う手立てとなるやもしれぬのです」
その時マリアは、宰相が落ちくぼんだ眼に鈍い光を湛えていることに気が付いた。闇の底へと誘う灯火のようであった。
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