第1場(2)

 そこには誰もいなかった。水面と青空が、微動だにすることなく広がっている。マリアは湖面の只中に立ったまま、しばらく待った。だが、誰かが来る気配もなかった。

 水の上を、歩き出す。一向に変わらぬ景色。進んでいる実感がない。ギギと一緒に歩いている時は気にもならなかった空白を感じる。自分が、圧倒的に孤独な存在であると教えられている気がするのだ。

 それも手伝って、彼女は前に進む力を失った。水の中に跪き、身体を支えていることさえ出来なくなって蹲った。

 堪えていたものが、溢れ出た。

 湖面の水は冷たくもなければ熱くもなかった。それどころか、確かに腕や顔を沈めている筈なのに、彼女を濡らすようなこともしなかった。彼女の頬を濡らしていたのは、彼女の内から溢れ出たものであった。

 押さえようとしても、歯止めが利かない。歯を食いしばろうにも、喉は喉で引き攣り、暴れている。

 いつもなら起きている時と同様、思った通りに振る舞えるこの夢が、今日ばかりは勝手が違った。他の夢と同じように、何か言葉を発しようとしても、意図したように声が出ない。出たとしても舌が動かない。だが、水牢にでも入れられているようなもどかしさを覚えながらも、マリアは思いの丈を吐き出した。

 父に詫びた。女王として、戦争を止められなかったこと、多くの民を死に追いやってしまったこと、父から受け継いだベレヌスを守れなかったことを懺悔した。

 そこへ掛けられる言葉は何もない。吹き渡る風の音も、さざ波の音も、ここには存在しない。マリアの嗚咽が響くばかりである。ただ、音もなく走った波紋が彼女の脚に当たったのだが、それを彼女は知る由もなかった。


「ベレヌスが劣勢に立たされているというのは、どうやら真実のようです」

 夢を見てから数日が経ったある日、髪結いの途中で、ロゼッタがそんなことを言った。

「夜中に番兵たちが話しているのが聞こえました。帰還兵の証言だとか」

 侍女が聞いたところによると、戦地では兵たちの士気の低下が著しく、脱走も相次いでいるとのことだった。それが更なる士気の低下を招くという悪循環が続き、防衛線を破られるのもいよいよ時間の問題だという。

「ここもいつ危険が及ぶかわからないのね」

「お逃げになりますか?」

「ノルマントが許さないわ」苦笑してから、マリアは「でも」と続ける。「あなただけならいつでも出て行ける」

「何を仰いますか」

「冗談ではないわ。ここを出て、王都を離れなさい。あなたの故郷は東の森の向こうだったわね?」

「マリア様」髪を結う手は止めずに、ロゼッタは言った。「私は、あなたが『マリアンナ』の名を戴くまでお側に仕えることを使命として村を出て参りました。家の者たちも、そんな私を誇りに思っております。今、マリア様のお姿しか見ないままで村に帰れば、彼らに恥を掻かせることになります。私自身、そんな恥を忍んでまで、故郷の土を踏みたいとは思いません」

「そんなことを言っている場合では――」

「こんな時だからこそ、そんなことを言うのです」

 鏡がないので見えないが、髪が結い上がったらしい。毎朝同じように繰り返されてきたので、ロゼッタの手つきでわかった。

「マリア様こそ、何を諦めていらっしゃるのです」いつになく柔らかい、侍女の声だった。「あなたの名前は、まだ途中なのですよ?」

 マリアは顔を上げた。そうしてから、自分が知らぬうちに俯いていたことを知った。

 彼女が口を開くのと時を同じくして、石畳を踏み鳴らす靴音が聞こえてきた。漫然と見廻りに来る番兵の足取りとは違って聞こえた。それも複数である。

 果たして現れたのは、三人の近衛兵であった。

「宰相閣下がお呼びでございます、王妃殿下」

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