第5幕

第1場(1)

 隣国との戦争が始まって一年が経つ。大方の予想通り、テウタテスの軍事政権は河を渡り、ベレヌス領内となる西の平原に侵攻してきた。これに対し、ベレヌス王国では防衛の名の下に軍を派遣。両軍が相まみえることとなった。

 河を挟んでの小競り合いはたちまち大規模な武力衝突へと発展した。双方の戦力に大差はなく、互いに火花を散らしながら、やがて戦局は膠着状態へと陥った。

 両国が襟首を掴み合ったまま、泥沼に腰まで浸かっているようなものだった。相手から手を離せば、この窮状を脱することが出来るとは双方が理解していた。だが同時に、一度でも退けば相手に組み敷かれることをそれぞれが同じように恐れてもいた。恐れるが故、両者は固まったままの姿勢で動けずにいるのだった。しかも身体は徐々に泥の中へと没していった。

 ベレヌス国内は、政治も国民生活も「戦争」の色で塗り上げられた。元々、片手間で戦争をしながら平和な暮らしが送れるほどの国力はない。いざ戦いが始まれば、男は兵隊として駆り出され、その抜けた穴を女子供で埋めざるを得なくなる。いくら魔法や便利な機械の手助けがあろうと、食糧を初めとした生活必需品の生産量は通常時より少なくなる。更にそこから戦地への補給物資が引かれるものだから、市民へ出回る品物の量は余計に制限される。生活の質は、王都であっても低下を免れなかった。

 貧しい生活は人心のゆとりを着実に奪っていった。街では物盗りや騙りが横行し、風紀が著しく乱れ始めた。また、戦場が王都から遠くないこともあってか、危険を感じ、街から出て行く者も後を絶たなかった。城下には空き家が目立つようになり、それが治安の悪化に拍車を掛けていた。

 戦況については、「一進一退」というのが国民に知らされる全てであった。あながち嘘ではないが、真実としては幾分情報不足の感が否めない。その不足分は、不自由を強いられた国民たちが抱える漠然とした「不安」が補った。

「ベレヌスは劣勢にあるらしい。直に防衛線が破られて、テウタテス軍が王都までやって来るかもしれない」

 そんな噂が、街のあちこちで聞かれるようになった。人の不安感を燃料に燃え広がるものだから、噂は城中、果ては、地下牢に暮らすマリアの耳にさえ入ってきた。

 テウタテスとの戦端が開かれたのは、マリアが投獄されたおよそ一月後のことだった。マリアは開戦の報せを牢の中で、夫の口から聞かされた。相談ではなく、既に決まったことの報告だった。

 また、それは出陣の挨拶でもあった。

「これより戦地へ赴き、指揮を執って参ります」

 求められるままに、マリアは格子の隙間から右手を差し出した。その甲に、ジョルジュは音もなく口づけをした。

「ご武運を」ようやくそれだけ言った。他に相応しい言葉が見つからなかった。今の自分が口にしても差し支えない言葉が。

 その後、ジョルジュの動向に関しては何の情報ももたらされていない。膠着状態が続いているということは、少なくとも軍の維持は出来ているということだと、マリアは考えるようにしていた。例の噂が現実となる時、その時こそが、夫が帰らぬ人となるのだろう、とも。


 ところで、囚われの身でありながら、マリアは王族らしい気品を保ち続けていた。常に身ぎれいを心掛け、己の格好を整えることを彼女は忘れなかった。髪は毎朝結い上げたし、服も毎日着替えた。交渉の末、厳重警備の元での湯浴みも許可された。自由に出歩けぬ不便を除けば、彼女の暮らしは投獄前と遜色ない水準にまで戻っていた。

 こうした生活の維持は、ひとえにロゼッタの尽力に依るものだった。元々投獄される謂れのないロゼッタだったが、マリアが牢に入れられたその晩、自ら進んでマリアの髪を梳かしに来たのである。そしてそのまま、彼女の身の回りをするために同じ牢に身を置いた。服や食事、入浴のあれこれに関しては、全て彼女が手筈を整えていた。マリアはこの侍女の手を取って、眼を見つめた。感謝を述べようにも、喉が詰まって出てこなかった。

「生涯に渡りマリア様の身の回りのお世話をするのが、私の務めでございます」感激に堪える主人を余所に、侍女はあくまで淡々としていた。「マリア様は、どうかご自身の務めに集中なさって下さい」

「わたしの、務め……」

「あなたは、この国の王妃なのです。王妃は王妃らしく振る舞わねばなりません。たとえ地下牢の中に閉じ込められていようとも」

 かくしてマリアは、独房に於いても毅然とした態度を保ち続けた。時折ノルマントが様子を見に来ることがあったが、決して咎人としてではなく、国家君主の妻として相手の前に立った。当然、宰相の顔には面白くなさそうな色が浮かんでいたが、それを楽しむ余裕も段々と生まれてきた。

 もちろん、ここで彼女が無理をしていないといえば、嘘になる。無実とはいえ、いや、無実であるからこそ、獄中で過ごす時間は負担となり、着実にマリアの身体にのし掛かってきた。

 弱音は吐かぬと決めていた。泪など論外である。そう己に課した誓いを、彼女は愚直なまでに守り続けた。少なくとも、現実の世界では。

 毎晩、腕飾りを握りしめながら床に就いた。閉じた瞼の裏にはいつも、最後に見た、ギギの後ろ姿が浮かんでいた。彼と話がしたいというのが、彼女にとって第一の願いだった。それが叶わぬのなら、責めてあの場所に行かせて欲しいと思った。

 そうしてある晩、マリアはようやく、〈果てのない湖〉に立つことが出来たのだった。

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