第4場(3)

 鏡に向かいながらも、浮かんでくるのはギギの姿ばかりである。手際よく結い上げられていく己の頭になどは、少しも意識の網に掛かることはなかった。こちらは放っておいてもロゼッタが上手くやってくれる。

 突然、全ての思考を断ち切る音が響いた。

 扉が叩かれているのだ。その荒々しい音からは、相手がこちらに好意を持っていないことが容易く覗えた。

「マリア様」鏡越しにロゼッタの視線とぶつかった。マリアが頷くと、彼女は髪結いの残りを手早く仕上げた。

「ありがとう」マリアは言って、椅子から腰を上げた。

 スカートの裾を引きずりながら、扉へ向かう。先に立ったロゼッタが、両開きの片方を開けた。

 廊下には、近衛兵が五人ほど立っていた。人数も去ることながら、鎧を着込み、兜の面を下ろしたその姿が、ただ事ではないことを無言の内に語っていた。冷たく重い金属の触れ合う音に、抵抗する気持ちを押し潰されながら、マリアは訊ねた。

「これは何事です」

 すると近衛兵の一人が一歩前に歩み出た。

「国王陛下のご命令により、貴女を拘束しに参りました」

「陛下が」宰相の名が出なかったことが意外だった。

 直ちに四方を取り囲まれた。後ろでロゼッタの呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることは許されず、マリアは連行された。向かった先は地下牢で、さすがに丁重に導かれながらも、牢に踏み込んだ彼女が振り返るなり、目の前で鉄扉が閉ざされた。錠を掛ける音が、胸の中心にまで響いた。

 柵の向こうに居並んでいた近衛兵たちが二手に分かれた。その向こうから、ジョルジュがノルマントを伴って歩いてきた。宰相の顔色は平板で、表情というものが覗えなかった。ジョルジュは足元に敷き詰められた石畳に目線を落としていた。

「妙な夢を見ました」

 夢、という単語をジョルジュの口から聞いた途端、何が起きたのか、おおよその合点がいった。

「あなたが、翼竜に話し掛けている夢です。街を焼いた、あの角折れの翼竜に」

 マリアは息を呑む。たかだか夢の話ではないか、と抗弁の仕様はいくらでもある筈だったが、言葉は出てこなかった。その沈黙が、余計に夫の顔を曇らせた。

「私には国王として、この国の民を守る義務があります」

 小さく頷く。ジョルジュの言っていること、考えていることに異論はない。もし自分が同じ立場にいたならば、同じ選択をするに違いない。王妃が国に災いをもたらす翼竜を信仰しているなどと知れたら、王国の存在そのものが揺らぎかねない。

「聞いて下さい、陛下」無駄だとわかっていたが、マリアは言葉を絞り出した。「彼があのようなことに及んだのには、何か理由が……」

 彼、というのが拙かった。何かを押し潰したような手応えが、確かに感じられた。

「少しの間、ここで頭を冷やして下さい」

 蟻地獄に嵌まったみたいに、藻掻けば藻掻くほど身体が沈んでいく気がした。マリアは口を閉ざし、俯くように頷いた。

 ジョルジュが踵を返し、去って行く。ノルマントもそれに続く。宰相は振り返り様、横目を投げてきた。いかにも哀れなものに向けられる眼であった。彼の中では完全に、マリアは異形の物を愛でる狂った王妃なのだろう。彼女に狂っているつもりはなかったが、或いは自分が気付いていないだけで、相当に狂っているのかしらん、という気持ちが、僅かばかりだがマリアの胸に兆した。

 狂っていないことを証明することは難しい。己が正常であると主張すればするほど、周囲は異常者を見る眼を向けてくる。自分が普通かどうかを決めるのは、自分ではなく他人なのだ。

 今は、為す術は何もない。近衛兵たちも立ち去り、一人になった地下牢で、マリアは鉄格子に凭れながらその場に崩れ落ちた。

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