第7場

「……陛下、陛下」

 頬を叩かれている。薄目を開くと、誰かがこちらを覗き込んでいた。青年である。

「私がわかりますか、女王陛下」

「ジョルジュ殿……」

 将来夫になる男性、という記憶も思い出されたが、頭を駆け抜ける痛みがそれを掻き消した。

「――っ」

「大丈夫ですか? どうぞそのままで」

「大丈夫です……一体何が?」

 断続的に地鳴りのような音が聞こえている。地震が起きたかと思えば、石造りの天井から砂がこぼれてくる。

「新たに飛来した翼竜が暴れているのです。私は応戦しに行く途中、ここで倒れている陛下を発見いたしました」

 マリアは記憶を手繰る。最後に憶えているのは、捕まった竜の鳴き声を聞きながら、近衛兵に連れられて中庭を後にしたところまでだ。何か大きな音が轟いたところで、意識は暗転した。

 見れば、辺りは瓦礫だらけである。崩れた煉瓦の山の下からは、近衛兵が身につけていた鎧の籠手が伸びている。彼女の傍にいた者たちは、逃げたわけではなさそうだった。

 口の中で鎮魂の祈りを唱えていると、突然光に包まれた。雷を十発分、間近で聞いたような轟音が続く。身体が根源的な恐怖で震えた。溶かされるような熱気と無限にも思える砂埃に包まれる。

 あまりのことで、自分がジョルジュの胸に抱きすくめられていることにも気付くのが遅れた。

「陛下、ご無事ですか?」

「ええ……」

 身を離したジョルジュは安堵したように頬を緩めた。その顔は煤で黒くなっていた。

「安全な場所までお供いたします。立てますか?」

 マリアは頷き、ジョルジュに手を取られながら腰を上げた。

 左手首が思い出したように熱くなる。実際はずっと熱を帯びていたのだが、周囲の出来事に較べれば些事みたいなものだった。しかし、並の腕飾りでは考えられぬ現象であることは確かだ。

「腕がどうかされましたか?」

「大事ありません」

 竜の吼える声が響き、また地面が揺れた。マリアはジョルジュに抱かれるようにして、瓦礫だらけの城内を進み出した。

 しばらく行くと、廊下の向こうに人の気配があった。

「ロゼッタ!」

「陛下……ご無事でしたか」

「あなたこそ」

 マリアは煤だらけの侍女に駆け寄った。ロゼッタの他にも、逃げてきたと思しき城の者たちが集まっている。

「こちらはもう火が回っています。西側の階段から地下倉庫へ逃れましょう」

「これで全員? 他の人たちは?」

 ロゼッタは口を噤む。それだけで答えとしては十分だった。

「急ぎましょう。ここも危険です」

 ジョルジュに促され、女たちは移動を初める。

 マリアは一人、窓の向こうへ目を留めた。城壁が黒い帯となって横たわっている。その奥では、橙色の炎が揺らめき、黒煙で覆われた空を照らしている。

 その空を、裂くように飛ぶ影があった。翼竜だ。光の線が走ったかと思うと、地上では火柱が上がった。竜は断続的に線を吐き出し続ける。爆発の衝撃と竜の咆哮が、呆然と立ち尽くすマリアの目の前で窓硝子をガタガタと揺らした。

 左手首に手を添える。腕飾りはもはや彼女の手首を焼き、血を滴らせていた。痛みはない。そんなもの、感じる資格もないように思われた。

「陛下」

 ジョルジュに腕を掴まれる。しかしマリアの足は、その場を離れようとはしなかった。

 マリアは、火の海に浮かぶ翼竜に目を奪われていた。

 禍々しい怪物。にも関わらず、その姿は彼女に、夢の中で出会った、異国の装束に身を包んだ少年を思い出させた。

 ギギ。

 腕飾りを、元となる竜の角を手に入れてから、夢で会うようになった少年――。

「止めなくては……」マリアは呟いた。

「何を仰るのです」

「わたくしが逃げるわけにはいきません」

「陛下!」

 掴まれた腕に力が込められる。マリアはジョルジュを振り返り、

「行かせてください」

「行ってどうなります。危険に身を晒すだけです」

「わたくしには……責任があります」

「ええ。生き延びて、残った者たちを導く責任が」

 それもそうだろう、とマリアは思う。だが同時に、その責任はジョルジュに任せる考えでもあった。なにせ彼は、次期国王と決まっているのだから。

 マリアはジョルジュの手を振り解いた。

「ロゼッタたちをお願いします」

「陛下――」

 青年の叫びは、焼け落ちてきた資材に断ち切られた。炎の向こうでジョルジュが無事でいるのを確かめてから、マリアは火が口を開けたような廊下を駆け出した。

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