第6場

 どのようにして谷まで戻ったのか覚えていない。気付けばギギは仲間と共に真っ暗な洞穴の中で、岩肌を叩く雨の音を聞いていた。

「こんな雨、どうってことねえだろ」ジョジョの声がした。「こうしてる間にもビビが危ねえんだ。行こうぜ」

 彼の向こうからは、賛同する若い声が聞こえる。

「駄目だ。この雨脚で飛ぶのは危ない。頭領も全員待機と言っている。今は待て」

 そう言ったのはゾゾである。声はあくまでしっかりしており、逸る若者たちをむしろ諫める冷静ささえ覗わせる。

「娘が心配じゃないのかよ!」

「今はお前たちの身の上の方が心配だ」それからゾゾは声を潜め、「ビビなら……あいつだって覚悟の上だろう」

 その言葉で、騒がしさが鎮まった。

 ギギは一人、出口へ向かった。外は未だ、滝のような土砂降りである。人間たちに捕まって、雨ざらしにされているビビの姿が目に浮かぶ。たちまち、胸の炎が小さく萎むのが感じられた。

「ギギ」洞穴の奥からゾゾがやって来た。「さっき、一番にビビを助けに行ってくれたそうだな」

 ありがとう、とゾゾは頭を下げる。ギギはそれを直視出来ず、曖昧な返事をして顔を背けた。

 助けられたのは自分の方だ。本当なら今頃は、自分が人間に捕まっていた筈なのだ――。

「何処に行く?」外へ出たギギに、ゾゾが問うた。

「寝床に帰ります」

「そうか……」

 翼を広げ、大雨の中に飛び立つ。雨粒が顔を叩き、縦横無尽に吹き付ける風に飛行をかき乱される。

 弱い、とギギは歯を食いしばる。やっぱり僕は弱い。

 力があれば。

 もっと戦う力が――強さがあれば、ビビを救えたのに。

 自分の洞穴が見えてきた。しかし彼は、着地の体勢を取らず、穴の入口を撫でるように岩肌を上昇した。

 強く――。

 真っ暗な雨雲に突っ込む。

 嘘でも良いから強くならなければ――。

 鱗が濡れる。だが、寒気は感じない。

 やがて、雲を抜けた。

 空はすっかり夜に染まっていた。その濃紺の空には、蒼白い下弦の月が浮かんでいた。それから星々の光が、撒いたような煌びやかさで輝いていた。

 黒い雲が掛かっているのは山の上ばかりである。既に雨雲の一団は通り過ぎたと見え、平原の方は晴れていた。人間たちの領分。ギギは自然と、夜の底に横たわる平原を目指して飛んでいた。


 しばらく飛んでいると、声が聞こえてきた。雲と同じ高さの場所である。自分の他には誰もいない。初めは風の音かと思ったが、耳を澄ませると確かに声だとわかった。

 遠くで誰かが叫んでいる。ここにいる、と仲間に向けて助けを呼んでいる。

 竜の言葉で。

「ビビ……!」

 微かだった声は、辿っていくごとに鮮明になってくる。近付けば近付くほど、それを発しているのがビビであるという確信が固まってきた。

 ビビの声がするのは、人間たちが築いた集落の中でも最も大きな〈都〉と呼ばれる場所からだ。晴れた日には谷の岩場からも望めるほど目立ち、今は夜に包まれた平野の中にあって尚、大きさを誇示するかのように煌々と光が灯っている、あの巨大な集落からだ。

 恐れはなかった。感じている暇もなかった。ギギは翼を後ろ向きにすぼめ、急降下を始める。

 声の出所は、天に向けて真っ直ぐ伸びた岩の、袂の辺りらしい。広場がある。

 その中で、羽ばたいている竜の影があった。

 ビビ――。

 正確には、飛び立とうとして、阻まれている竜の影である。武器を手にした人間たちに切りつけられ、魔法で翼や身体を凍らされている。地面に落ちたところへ、更に人間が群がっていく。

 人間たちは、寄ってたかってビビを痛めつけている。ギギにとって大切な者の命を奪おうとしている。

 戦わずに済むと思っていたのに。

 関わりさえしなければ、殺さずに済んだのに――。

 一瞬、マリーの姿が頭を過ぎる。彼女は、〈果てのない湖〉の上で振り返る。しかし、その顔を思い出すことは出来ない。

 人間。

 人間たちがビビを殺そうとしている。

 そんなことはさせない。絶対に――。

 鼻の頭、折れた角が疼く。同時に、喉の奥が熱くなった。

 口を開く。咆哮と共に炎が吹き出し、ビビに群がっていた人間たちを焼いた。鎧を纏った人間たちはすぐさま逃げ出すか、地面を転げ回った挙げ句そのまま動かなくなった。

 ビビの周囲に集まっていた人間たちは何か叫んでいる。聞こえない。というより、彼らの言葉の意味がわからない。だが構わない。竜である自分に人間の言葉など不要だ。どうせわかったところで通じ合えるわけでもない。

「ギギ……」

 ビビは地面に顔を落としたままだ。彼女の足には黒々とした人間の道具が繋がっている。ギギはそれを噛み切った。

「飛べるか、ビビ?」

「どうにか……ギギも一緒に行こう」

「先に行け。あいつらに用がある」

 集まってきた人間たちが、魔法の準備をしているのがわかる。ギギはそちらへ向けて炎を吐きつける。何も意識することなく、自然と炎は口を突いて出てきた。

「ギギ、駄目だ。あの中には……」

「行け!」

 背中を向けたまま、ギギはビビに命じた。ビビは何か言いたげに留まっていたが、やがて飛び去っていった。

 人間。彼らは続々と集まってくる。谷の竜を十倍にしたって足らないほどの数が既に集まっている。小さい代わりに数だけは多い。それも一人一人武器を持っているものだから、決して非力とも言い難い。

 こんな連中が谷まで来れば、どうなることか。

 改めて考えるまでもない。脅威。やはり父の言っていることは正しかったのかもしれない。谷の者たちを護るためには、この脅威を取り除かねばならない。

 護るためには戦わなければ。

 矢が飛んでくる。爆薬が爆ぜる。利かない。氷の棘や光の弾も、羽で薙ぎ払う。

 角が熱い。熔岩にでもなってしまったように、熱く、白く輝いている。

 戦え――。

 誰かが言う。自分の声だ。その声に従って、ギギは炎を吐く。吐いて、吐いて、吐きまくる。

 戦え。焼き尽くせ。

 角と同じぐらいに喉が熱い。それを吐き出すように咆哮すると、炎が線となって夜空を走った。遠くで、火山の噴火したような火柱が上がる。

 焼き尽くせ。全てを。護るために。

 戦え。

 ギギは吼える。その口から何本も火線を吐き出し、辺りを火の海に変えながら。

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