第5場(3)
それにしても、静かである。雨の音もしない。
半身を起こして窓を見ると、雨は止んでいるようだった。マリアはベッドを出て窓辺へ向かった。バルコニーの濡れた手摺りが、下弦の月が放つ弱い光を受けて輝いていた。
窓を開けると、冷たく湿った夜風が入ってきた。
月が雲に隠れては、また顔を出す。それが頻繁に繰り返される。濃紺の空を、同じ色の雲が渡っていく。
吹き付ける風が心地よい。だが、彼女の意識を覚ましたのは夜風ではなかった。
唸り声のようなものが聞こえた。
初めは空耳かと思うぐらい微かなものだった。風の音と大差なかった。だが、よくよく耳を凝らせば、空気の奏でるものとは違う、もっと実体のある音が、確かに何処かで響いているのだった。
何かの鳴き声のような――。
そこで、マリアの中で火花が弾けた。
彼女は踵を返すと部屋を横切り、廊下へ飛び出た。寝間着姿も厭わず絨毯の上を裸足で駆け、階段を飛ぶように降りて扉を破るように開けた。
中庭の、濡れた敷石の上を進む。唸り声は先ほどより明らかにはっきりと聞こえた。
白い裸足が、水溜まりに波紋を作って止まった。
隅の壁際である。濃い闇が溜まっている中に、一際黒い影が蹲っている。唸り声は、確かにそこから聞こえていた。
雲が退き、月が僅かながら闇を照らすと、濡れた鱗を輝かせた翼竜が現れた。
マリアは息を呑み、間もなく吐いた。その一呼吸で、緊張が解れた。
「あなた、ずっとここにいたのね?」
翼竜の眼差しに呼び掛ける。ぼんやりと開いた半目には、意識のようなものが辛うじて感じられた。
「すっかり濡れてしまって……寒かったでしょう」
鼻先に触れようと手を伸ばす。恐怖はなかった。翼竜が抵抗する気力もないほど弱っていたのもあるが、それ以上に安心感が強かった。絶対に襲い掛かってはこないだろうという安心感が。尤もそれは根拠のないもので、実際には翼竜は鼻を鳴らして威嚇の色を見せた。しかし幸いにして(そして「やはり」と言うべきか)弱っていたので、マリアの右腕は噛み千切られずに済んだのである。
触れた角は、氷柱のように冷え切っていた。吹き付ける弱い鼻息も冷たい。
「こんなに冷たくなって」
神に背いた翼竜たちが背負わされた罰――それは彼らが体内に宿した炎を指す。竜たちは命の形を炎に変えられてしまったのだ。炎が消えた時、彼らは死ぬ。ほんの少し水を被っただけで命を落とすほど脆い命を、竜たちは抱えて生きている。
はたとマリアは、あることに思い至る。角から離れ、翼竜の身体中に触れ始める。角だけでなく、鱗もまた氷のように冷たい。呼吸の度に開く鱗の隙間が、少しのあいだ見ているだけでも小さくなっていくのがわかる。急がなければ。彼女は自らも突っ伏して、竜と地面の間に腕を滑り込ませる。丁度胸の辺りを探り、鱗の隙間に手を充てる。
「ほんの気休めにしかならないかもしれないけど……」
石畳に頬を付けながら呪文を唱える。点火魔法。彼女が教わった、数少ない軽魔法の一つだ。暖炉の薪に火を点けるぐらいしか使い道はないものと思っていたが、思わぬところで役に立った。尤も、司祭が知れば泡を吹いて卒倒するような使い方ではあったが。
掌が暖かくなる。薪が燃えだした時のようだ。心なしか、翼竜の呼吸も穏やかになった気がする。
手を引き抜くと、竜の顔が間近に迫ってきた。先ほどより温かい鼻息が顔に当たる。
「お腹が空いてるの? わたしはあまり美味しくないと思うわ」
竜は牙を剥くこともなく、マリアの身体中に鼻を這わせる。においを嗅いでいるようだ。やがて鼻は、彼女の左腕に辿り着いた。腕飾りをした左の手首に。
「あなた、これの持ち主を知っているの?」
唸りながら、竜は瞬きをする。マリアにはそれが首肯に見えた。
「そう……これは不思議な力を持っているの。わたしを、ずっと遠くにいる人と巡り合わせてくれたのよ」
マリアは腕飾りに手を添えた。白い欠片はほんのりと、温もりを帯びていた。
不意に翼竜が首を持ち上げた。向いた牙の間から、怒気を孕んだ唸りが漏れる。目つきも今までとは異なっている。
「何をなさっているのです、陛下」
金属の触れ合う音と共に、ノルマントの声が聞こえてきた。宰相は伴ってきた近衛兵を、翼竜とマリアを囲むように配置した。
「お一人で竜に近付くなど、危険でございます。お離れ下さい」
「大事ありません。この竜は、我々に害を成す意思は持っていません」
「トカゲの言葉がわかると仰るのですか。相当に疲れが溜まってらっしゃるようで」
「彼らはわたくしたちの言葉を理解しています。わたくしたちだって、ちゃんと目を向ければ彼らの意思を感じることが出来ます」
「一度、司祭に祈祷を頼んだ方がよろしいようですな」
おい、とノルマントが合図すると、近衛兵が近付いてきた。するとマリアの頭上で、空気の弾をぶつけるような咆哮が轟いた。宰相以下、兵たちの包囲に綻びが生じた。
「陛下……まさか、そのトカゲに火を入れたのですか?」
「弱っていましたから当然です」
「なんと嘆かわしいことを。お父上が聞いたらどんなに哀しむか」
「あくまでも父の教えに従ったつもりです」
目の端に蒼白い光が映った。兵の一人が氷結魔法を唱えていた。
「やめなさい!」
マリアは両手を広げ、翼竜の前に立つ。狼狽えた兵の詠唱が止んだ。それからマリアは肩越しに竜を振り仰いだ。
「今のうちに逃げて」
翼竜はマリアを見下ろし、瞬きを一度した。そして夜空を見上げ、水滴を散らしながら翼を広げた。
羽ばたき、浮き上がった竜の身体はしかし、すぐに上昇を阻まれる。
左脚から地上に向けて、ピンと張った鎖が伸びていたのだ。
足枷はしっかと翼竜を捕らえ、鎖の先は地面に突き立てられた鉄の杭と繋がれていた。鉄の擦れる音が響くばかりで、とても断たれる気配はない。少なくとも、弱った今の翼竜では振り切ることは出来そうにない。
マリアは両脇を抱えられる。捕らえられる、といった方が良いような粗雑さだったが、翼竜を見上げる彼女には少しも気にならなかった。建物の中へ引きずり込まれるまで、彼女は竜から視線を外さなかった。
翼竜は羽ばたきながら、吼えた。
夜空に向けて、鎖を軋ませながら。
遠くの仲間に向けて、自分の存在を呼び掛けるように。
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