第5場(2)

 ロゼッタに髪を梳かれる間も、マリアは口を噤んだままだった。今はまだ何も喋りたくないし、何も考えたくなかった。その気持ちを察したのか、侍女もわざわざ話し掛けてくることはなかった。

 一人になり、ベッドへ入って灯りを消す。枕に頭を埋めると、静寂の奥からノルマントの声が蘇ってきた。

「陛下、何卒ご容赦下さい」ジョルジュとの婚約が宣言された後、未だ呆けたままのマリアに対し、ノルマントが言った言葉である。「ベレヌスは今、国難の只中にあるのです。憂いは北方の竜だけではありません。テウタテスの政情は不安定となり、我が国に友好的な現政権がいつ倒れてもおかしくはない。万一のことが起きた時、陛下に軍を率いるご覚悟はおありですか? 兵たちに、死地へ赴くよう指示を下すご覚悟が」

 マリアは何も言えなかった。ただでさえ混乱している頭に他人の命を左右する選択を迫られては、まともに考えることすらままならない。

「今は一刻も早く、実戦に臨むことの出来る体勢を整えるべきなのです。それが王国を存続させるための、唯一の道です」

 そのためには女王の身すら道具として扱うのか、と相手を責めるほど、マリアは子供ではなかった。むしろ彼女は、先王である父が崩御した日、ノルマントが言った言葉を自身の中で反芻し、なるほどと感心さえしたのだった。

 あの日、宰相は突如として王位を継承した少女に向けてこう言った。

「これからも我々は全力を尽くし、王国のために務めて参る所存であります」

 ノルマントを初め大臣たちは皆、マリアのために働くといったわけではなかった。彼らが膝を突くのは、飽くまでベレヌス王国の御旗の下に於いてであったのだ。王国の火が消えそうとあらば、彼らは君主といえども薪として炎にくべる。これを王に対する不敬としてではなく、忠臣として喜ばねばならないとマリアに教えたのは、誰あろう父だった。

「王は国民の代表者に過ぎぬ。国民は王ではなく、己が国に対して忠誠を誓うべきだ」

 だから、宰相が有能な軍司令官を得るためにマリアを餌に使うような真似をしようと、彼女にそれを責め立てる権利はないのである。そればかりか、不満を申し立てることは、女王たる彼女自身の、ベレヌス王国に対する不忠を晒すことにもなるのだ。

 わかってはいる。頭では、納得したつもりでいる――。

 寝床に入って、どれだけの時間が経ったかわからない。彼女は眼を開けたまま、見るともなしに暗い天井を見上げていた。長いあいだ考え事に耽っていたようだが、眠りは一向に訪れなかった。

 自然と右手が、左の手首に触れる。指に馴染んだ、腕飾りの感触があった。

「ギギ……」

 掠れた声は、夜の静寂に溶けていった。

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