第4場(3)

 風の乗り方を学ぶ翼竜たちは、雨雲の中に入ることは愚行だと教えられる。頭だけならまだしも、身体を濡らすことは竜にとっては害以外の何者でもないからだ。

 その愚を犯してでも進む理由が、しかし今のギギにはあった。

 雲を抜けると、雨の中で燃える木々が見えた。空中から地上に向けて細い火線が走るのも。考えるまでもなく、ビビが吐いた火炎だ。彼女は大断崖を背にする形で飛んでいる。追い込まれている、と見るべきか。谷へ戻る通路を人間たちに塞がれた格好である。

 ギギは吼えた。人間たちが振り向き、明らかに陣形が崩れた。

「ビビ、無事か?」

「どうにか」と、答えるビビの羽ばたきはどこか重たい。「来てくれると思ったよ」

「もうすぐ他の皆も来る。弟たちは?」

「岩の切れ間の中にいる。あそこなら、近付けさえしなければ安全だから」

 切り立つ岩に裂け目がある。たしかに、小さな身体であれば身をねじ込むことが出来そうだ。だが、入口を守護する者がいなくなれば、人間でも簡単に近付けそうな場所に位置していることも事実である。そこから先のことは、思い浮かびはしても詳しく考えたくはなかった。

「君も下がれ。身体を濡らしすぎている」ギギは言った。

「大丈夫、まだやれる」

 言うなり、ビビは火炎を人間たちに向けて吐き出す。人間たちは逃げ惑うが、火炎自体にはいつもの勢いが見られない。降りしきる雨と、彼女が体力を奪われたせいだ。

 時間さえ稼げれば――。

 ギギは羽ばたき、人間たちの頭上を飛んだ。ほんの少し、時間を稼ぐだけで良いのだ。今に谷の皆が来てくれる。

 ギギの出現は、人間たちに混乱を来すには十分な材料であるようだった。叫び声と共に、矢や岩、氷の棘が散発的に飛んでくる。それらをかわしながら、時には羽で地上を撫でるように飛び回り、人間たちの意識をビビとその後ろにある岩の裂け目から離していく。

 ギギの目論見通りに事は運んだ。あとは仲間の救援を待つばかりだった。

 ところが、仲間たちより先にこの水場へ新たにやって来た者があった。

 鎧を着込んだ人間の男で、嘶く白い馬に跨がっていた。

「落ち着くのだ皆の者! その竜は恐るるに足りない!」と、白馬の男が剣を抜いて叫んだ。「其奴は炎を吐かない! ただ飛び回っているだけだ!」

 その言葉が轟いた途端、逃げ回っていた人間たちが動きを止めた。彼らの目の輝きが変わるのを、ギギははっきりと見て取った。身体中を流れる血が、急速に冷えていくように感じられた。

「角折れの竜に攻撃を集中させるのだ!」

 今の今まで逃げ惑っていた人間たちが、馬上の男の声に呼応する。先ほどと同じ口から、今度は吼えるような猛々しい叫びが上がる。狩りに出る前の竜でさえ、ここまで激しくは吼えないかもしれない。

 白馬の男は更に叫ぶ。

「翼竜を生け捕りに! 女王陛下のご命令だ!」

 矢が束となって飛んでくる。岩も間髪置かずに飛来する。氷の棘は数を増したばかりか、大きく、しつこく追尾してくる。

 横へ飛んでも逃げ場はない。上空へ逃れる手もあるが、それでは標的がまたビビに戻ってしまう。逃げ回って、仲間が来るまでの時間を稼がなければ。しかし、果ての見えない我慢は大きな負担となって身体にのし掛かる。おまけに、雨で濡れた身体が段々と冷えて強張ってきた。

 一瞬、意識が遠のいた。ぼんやりしかけた頭を覚ましたのは皮肉にも痛みであった。右の羽根に矢が刺さったのである。

 歯を食いしばり、痛みに耐える。大した痛みではない。しかし動きが鈍くなったのは確かで、続けざまに投石を二発食らった。体勢を崩したところへ飛んできた氷の棘は辛くも掠っただけで済ませられたが、俊敏さをギギから奪った。

 白馬の男の指揮の下、人間たちは今やすっかり統制を取り戻していた。その様たるや、まるで一個の生き物のようだった。一つ一つは小さな力が寄り集まり、竜をも凌駕する力となっているのだ。怪物、とギギは思う。それは一匹の、巨大な怪物であった。

「ギギ!」

 ビビの声にハッとする。同時に、彼は誰かに押し退けられた。

 白く冷たい煙のような塊が頭上を掠める。首を捻り目で追っていくと、つい今し方まで自分のいたところを飛んでいるビビが煙に包まれた。

 パキパキと硬いものにひびが入るような音が聞こえる。

 氷――。

 水に張った氷が立てるような音である。

 それらの音の向こうでビビが叫んでいる。悲鳴。慟哭。いずれにせよ、少なからぬ苦痛を孕んだ叫びだ。

 煙に巻かれたビビは首筋や手、羽根に白い雪を纏っている。いや、その部分が凍っているのだ。空気中で氷の棘と化した雨が何本も背中に突き刺さっている。開いた口からは炎ではなく、真っ白な冷気が立ち昇る。

「ビビ!」

 近寄ろうとしたその刹那、目の前で何かが閃いた。続いて、辺りを圧する轟音が響く。途端にギギの身体は一切の躍動を拒むようになった。雷を孕んだ一際黒い雨雲が、すぐ間近まで来ていた。

 冷気に絡みつかれたまま、ビビは墜ちていく。雨脚は激しさを増し、地上の様子さえ碌に見通すことが出来ない。ただ、重たい何かが泥に没した音が雨音に混じって聞こえた。

 尚も身体は動かない。反射で羽ばたき続ける翼を除いて、ギギの肉体は雨の中ですっかり固まっていた。冷えと恐怖が雨水と共に鱗の隙間から入り込んでくるのが嫌でも感じられた。

 雷鳴が轟く。もはや、身を竦ませる余裕もない。

 雷の音はしばらく耳に残った。轟きはいつまでも止まない。耳にこびり付いたにしてはやけに長いと思ったら、別の号砲の輪郭を帯びてきた。

 竜の咆哮だ。

 ギギの脇を、黒い影が通り過ぎる。更にいくつもの影が続く。

 影たちは風を切って旋回しながら、地上へ向けて炎を吐き始める。

 雨音と雷鳴と狂乱の声。それらの音に包まれながら、しかしギギはそのどれとも無関係のまま、ただその場に浮かんで雨に打たれ続ける。

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