第2場

 気付けば〈果てのない湖〉に立っていた。久しぶりの夢である。

 足元には、人間の姿をした自分が映っていた。これまで何度かしか見たことのない顔なのに、妙に馴染みを覚えるのが毎度のことながら不思議だった。

 ぼんやりした眼で見つめ返してくる自分の顔が波に揺られた。

 顔を上げると、少女が向かいに立っていた。

「お久しぶり」

「どうも……」ギギはぎこちなく言いながら、軽く会釈した。

 久しぶりに会う彼女は見た目こそ変わらぬものの、心なしか大人っぽくなっていた。笑みの浮かべ方や細かな立ち振る舞い、纏う雰囲気が、前に会った時とは違うのだった。

「元気そうね、ギギ」

「君の方こそ」

「……すごく、あなたに会いたかったわ」

「僕もだよ」

 二人は自然と歩き出した。

 ギギは言う。

「ずっとこの夢を見ないから、どうしたのかと心配してたんだ」

「ごめんなさい。あれから色々なことがあったものだから」

 マリーはそう言うと、何か口に出すべきか迷った風な沈黙を挟んだ。少しして決意が固まったようで、

「実は、父が亡くなったの」

 ギギは胸に氷の棘を突き立てられたような心持ちになった。

「それで、わたしが仕事を引き継ぐことになって。忙しくて夢を見る暇もなく寝入ってしまったわ」

「そう……凄いんだな、君は。僕には全然そんなの無理だ」

 父の跡目を継ぐなんて、今の自分からは想像もつかない。

「わたしだって怖いことばかりよ。でも、いつかはやらなければならないことですもの。それが思っていたよりも早く来ただけ」

「少し会わないうちに大人になったね」

「そうかしら」

 いつの間にか、マリーは数歩先を歩いていた。彼女の残した波紋を辿るように、ギギは後をついていく。

「本当は、まだまだ大人になんてなりたくないのだけど」マリーが前を向いたまま言った。「色んなところへ行って、色んなものを見てみたかった。あなたの住む国にだって行きたかったわ」

「大したものじゃないよ。岩ばかりで味気ないところさ」ギギは胸に押し潰されるような苦しさを覚えながら言った。

「でも、あなたがいる」

 マリーの小さな後ろ姿が、そう言った。ギギは無意識のうちに足を止めた。自分が立ち止まっていることに気付かぬほど、彼の頭は真っ白になっていた。

 空っぽになった頭に、たった今聞いたばかりの声がこだまする。でも、あなたがいる。

 あなたがいる。

 彼女は何でもないように言ったが、ギギにとっては何か大切な意味を持つ言葉だった。あなたがいるわ。繰り返す度、胸の奥底からムズムズと、疼きのようなものが湧いてくる。

 この感覚、何かに似ている――。

 岩場に一輪だけ咲いた花が風に揺れる様を目にした時だ、と彼は思い至る。そうだ、あの時に感じた疼きに似ているのだ。

 言い知れぬ居心地の悪さを感じる。かといって不快というわけではない。

 何かしたいが、何をすれば良いのかわからない。だが、じっとしているのは不可能で、何かしたくて堪らない。

 もどかしさが靄となって立ちこめる。何も見えぬと途方に暮れる。

 ところが、やがて靄の向こうが見通せそうだということがわかってくる。目を凝らす。じっと、靄に覆い隠されたものを見定めようと試みる。

 靄は次第に晴れていく。見えてくるのは、己の気持ちだと判明する。本当に自分がしたいこと。それが、靄に隠れていたものであり、胸を疼かせる原因でもあった。そしてギギは、その正体をかなり早い段階から悟っていた。見えていたのに、見えないふりをしていたのだ。

 深く息を吐く。忙しくなった呼吸は整うどころか、むしろ余計に早まった。それでも、もう行動に移すしかない。もう自分にさえ、自分を止めることは出来ない。

 一歩踏み出す。

 彼女が振り返る前に――。そう思うと、翼がないのが惜しくなる。

 二歩目。

 彼女はまだ振り返らない。華奢な後ろ姿が近付いてくる。

 その背中を。

 岩場に咲く花のような、小さな背中を。

 包み込もうと、ギギは両手を広げる。

 広げたまま、彼は動きを止める。

 止められないと思っていた自分を、自分が止めた。正確には彼の自制心ではなく、不意に蘇ってきた記憶が、であるが。

 大事なことを忘れていた。訊かねばならないことがあった。

「マリー……」掠れる声で、ギギは言った。マリーは依然として前を向いたままだった。「前にした質問、覚えてる?」

「質問?」

「もしも僕が怪物だったとしても友達になってくれたかっていう質問。答えを聞く前に君はいなくなってしまった」

「そう……そうだったわね」

「あの質問の答えを聞かせてくれないかな」

「気になるの?」

「気になる」

「どうして?」

 言葉に詰まる。よくよく考えれば、拘るのも妙な質問だ。これではまるで、自分が人間ではないと言っているようなものではないか。

 そこで、「もしかして」という考えがポッと浮かぶ。

 もしかして、彼女は自分の正体に気付いているのではないか?

 クスッと笑いが漏れた。それでギギは我に返った。両手を広げた己の恰好が、急に滑稽に思えてきて止めた。

「そろそろ時間みたい」マリーは言った。

「答えは、マリー?」

 すると彼女は黄金色の髪を揺らして肩越しに振り返り、

「今度会った時のお楽しみにしましょう」

「それはひどい!」

 悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思うと、少女は姿を消していた。彼女の痕跡といえば、立っていた場所を中心に広がる波紋だけだった。ギギはまたしても、空を映した水面に取り残された。

 目を覚ますと、平原を見渡せる岩場にいた。居眠りをしていたらしい。

 空には月。すっかり寝入ってしまったようだ。雨が降らずに幸いだったと首を振りながら、ギギは水溜まりへ向かった。

 月を取り込んだ水溜まりに口を付け、喉を潤す。

 一息吐いて顔を上げると、暗い水面に映る影が目に入った。

 細く長い顔。その両端に填め込まれた眼。頭には、後ろに向けて左右にそれぞれ角が伸びている。一般的な翼竜の姿である。

「怪物……」ギギは呟いた。今夜は風もない。彼の声は夜気の中で鮮明に響いた。少なくとも彼の耳にははっきりと届いた。

 岩の間に咲いた花が、月明かりに照らされながらじっとギギを見つめていた。

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