第3幕

第1場

 女王マリア=レ=ベレヌスの一日は櫛入れから始まる。

 朝、寝床を出るや鏡の前に座らされ、髪を梳かされる。櫛を持つのは相変わらずロゼッタだ。というより、彼女はこのために長年に渡って現女王に仕えてきたのである。

 傍に立つのが気心知れた相手という安心感と日頃の疲れも相まって、マリアはうつらうつらと舟を漕ぐ。女王に即位してからこっち、毎晩遅くまで国家運営に腐心し、そうでない時には頻繁に催される夜会へと引っ張り回されてきた。満足いくほど眠った覚えなど、もうしばらくなかった。

「陛下、お召し物が汚れます」

 ロゼッタの声に、マリアはハッとする。鏡の中では間の抜けた顔をした娘が、今にも涎を垂らさんとしている。マリアは慌てて口元を拭った。

「しっかり前を向いていて下さいまし」

「わかっているわ」

 やがて髪が結い上がる。中身はどうあれ、形だけは女王らしい出で立ちだとマリアは我ながら思う。

「ご朝食の前に、宰相閣下がお会いになりたいそうです」

「ノルマントが?」

 腹の虫が盛大に鳴いた。誰あろう、自分の腹に飼っているものだということは疑いようがなかった。さすがに恥を覚え、マリアは俯いた。

「後にしていただくよう伝えますか?」

 ロゼッタの言葉に、マリアは首を振る。

「いいえ。このまま会いに行くわ」


 謁見の間には既に、ノルマントの姿があった。彼は挨拶もそこそこに、伏せていた顔を上げた。

「北方の砦が昨夜、襲撃を受けました」

「襲撃?」

「相手は竜の群れだそうです」

 マリアは左手首に嵌めた腕飾りに触れた。

「……被害は?」

「資材庫を焼かれはしましたが、怪我人などはありません。魔道士隊が撃退いたしました」

「そう」気付かれぬように、小さく息を吐く。

「ですが、またいつ何時、奴らがやってくるかわかりません。特に今回の襲撃など、砦を狙ってきているという辺りに、奴らが知恵を働かせた形跡が感じられます。我々もうかうかしている場合ではないでしょう」

 マリアが話の転がる先を読む前に、ノルマントは続ける。

「川向こうのテウタテスも何やら不穏な動きを見せております。万一の事態に備え、憂いは少しでも取り除いておくべきではないでしょうか」

「と、いうと?」

 するとノルマントは口元に笑みを浮かべ、

「翼竜の大規模討伐作戦を進言いたします」

 マリアの背中に冷たいものが走った。彼女は腕飾りをもう片方の掌で覆った。

「殺すのですか、竜を?」

「討伐作戦ですからな。反対であられますか?」

 曖昧に答える。頭の中で頁を繰り、なにか良策を探す。そうして見つけた一条の光に、藁をも掴む思いで縋り付く。

「タラニスの山へ軍を入れるというのですか? 貴方の言った通りなら、現時点で国境から軍を退くのは危険なのでしょう?」

「さすがは女王陛下。しっかりと大局へも目をお配りになっていらっしゃる。亡き先王陛下もさぞかしお喜びのことでしょう」

 褒められている筈だが、皮肉にしか聞こえない。

「国境線防衛につきましてはご安心下さい。タラニスへは軍ではなく、狩人たちを向かわせますので」

「狩人たちだけで行かせる気ですか? 相手は翼竜――。野鳥や野兎とはわけが違うのですよ?」

「無論、その道の手練れを招集し、討伐隊を結成する所存です。国内の日曜狩人では心許ないですからな」

「傭兵を雇うのですか?」

 ノルマントは頷いた。

「世の中には血の気の多い連中が溢れかえっております。条件次第では、打って付けの人材がいとも簡単に集まってくるでしょう。いつぞやのように角だけなどとケチなことは言わず、竜の死体をご覧に入れることも可能かと」

 言われてマリアは眉を顰める。ついさっきまで腹の底にあった空腹は何処かへ行ってしまった。得意になって弁舌を振るい続けるノルマントの言葉は、もうマリアの耳には入ってこない。彼女は左の手首を押さえながら、遠く北方に聳える岩山へ思いを馳せた。それから何故だか、ギギのことを考えた。

 ギギと話がしたかった。

 最後に会った時、問い掛けを受けたまま、夢が終わってしまった。あのまま彼は、今でも答えを待っている気がした。飽くまで、ギギが己の頭が作り出した「夢」という妄想の一部だとは、マリアは考えていなかった。

 ギギは必ず、この空の下の何処かにいる――。そう胸の内で呟くと、腕飾りがぼんやりと熱を帯びる気がした。

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