第5場(1)

 大満月の夜がやって来た。

 こんな日に限って、空には雲一つ見当たらない。飛ぶには絶好の天気である。

 ギギが一声発すれば、仲間たちが集まる手筈となっていた。しかしギギは、なかなか出発の咆哮を上げずにいた。彼は自身の寝床の中で口を噤み、むしろ反対の決意を固めつつあった。

 穴の外が俄かに騒がしくなる。出発を待ちわびた若い竜たちが焦れだしたのだ。やがてビビが、入り口に降り立った。

「どうした? みんな待ってるぞ」

「うん」ギギは首を上げた。「ビビ、悪いけど、みんなにもう少し待つように言っておいてくれないか?」

「もう月は真上に来てるぞ?」

「時間は掛からないよ」

 ビビはギギの真意を見定めるように間を置いてから、「わかった」と頷いて出て行った。間もなくしてギギも重い腰を上げ、洞穴を抜け出した。

 蒼白い月明りに照らされた谷を、風に乗って飛ぶ。向かったのは、頭領の元である。岩肌にぽっかりと空いた入口は思いのほか静かで、だからこそ余計に彼を緊張させた。嵐の前の凪、という格言が、否応なしに蘇る。

「ギギか」

 洞穴に足を踏み入れるや、奥から低い声が響いた。ギギは全身の鱗が逆立ち、小刻みに震えるのを感じた。だが、己を奮い立たせて闇の中へと進んでいく。

「こんな所で何をしておる。時は十分に満ちたぞ」

「父上、お話ししたいことがあります」

「話、だと?」

 父の前まで来た。台座の上で月光に照らされた巨体は、もはや岩と区別がつかない。だが、鋭い眼差しだけはしっかりと存在感を放ち、ギギの方を見下ろしてきた。

 少しでも気を抜けば身体が潰れてしまいそうな恐怖と戦いながら、ギギは言う。

「今宵の遠征を、中止したく思います」

「何故だ」

「人間たちの村を襲う理由がないからです」

「理由ならある。奴らは我々の領分を犯した。これだけでも十分、奴らを根絶やしにする根拠となる」

「ですが、その領分は我ら竜が勝手に定めたものです。人間が知らずに足を踏み込んだということも考えられます」

「知らなければ何でも許されるわけではない。無知は時として罪だ。それに奴らは、明確にお前たちの命を狙っていたのだろう?」

 ギギの鼻頭が疼く。折れた角は、まだいくらも生え変わっていない。というか、あの日から生えてきている気配がない。

 あの時聞いた人間たちの会話や、彼らの目つきが蘇ってきた。どう好意的に思い返しても、そこに何らかの害意を認めないわけにはいかなかった。いや、はっきりと言えば、そこには明確な殺意が込められていた。

「お前は悔しくないのか?」

 父の問い掛けに、ギギは顔を上げた。

「自分に土を付けた者に対し、悔しさはないのか? 雪辱を晴らしたいとは考えぬのか?」

 ギギにはその気持ちがわからない。自分を負かせた相手にもう一度挑んでも、結果は変わらないのではないか。そもそも、絶対に勝たなければならないという考えからして理解出来ない。合わない相手なら、関わらなければ良いだけではないか。

 こうした考え方の差異に、彼は父との断絶を感じる。自分たちは血こそ繋がっているかもしれないが、根本的な部分が違っている、と。

 ギギは口を開きかけ、やはり噤んだ。いくら言葉を重ねても、父には届かないのだという悟りがそうさせた。何を言っても父が自分の考えを受け入れることはないだろうし、逆も確実にない。彼は項垂れ、「わかりました」と呟くように言った。そして踵を返し、出口へ向かった。

「力に対抗出来るのは力だけだ」背中に父の言葉が当たる。「お前には次なる長として、一族を守る〈力〉を付ける義務がある」

 ギギは洞穴の外へ出た。

 翼を開く。それから夜空に向かい、咆哮を上げた。

 まるで、月に挑みかかるように叫んだ。呼応するように、谷の方々から同じような声が響いてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る