第2場(1)

 タラニスの山々には雲が掛かっていた。時折、雲の隙間が光っているのは雷のようだ。微かに雷鳴が聞こえる。

 今日もマリーは塔の上にいた。尤も、その碧の瞳は遠くで雨雲が山脈を覆う様を映してはいなかった。三角座りした彼女の頭の中では、夢の中で聞いた、異国の青年の言葉が何度も何度も繰り返されていた。

「友達」

 声に出すと、不思議な響きがあった。これまで文字としては何度も目にしてきた。だが、まさか自分が口にする時が来るとは思ってもみなかった。自分とは全く関係のない場所にあった言葉。それが目の前に急に現れたことが、未だに信じ切れずにいる。

 ただの夢なのに、という気持ちは初めからなかった。ギギという青年は何処かにいて、あの空の中にいるような空間での一時を共有しているに違いないと、彼女は確信していた。だから、夢の中で彼に言われた言葉は現実世界で受けたものと同じように捉えることが出来る。そこで感じる喜びも、ちゃんと手触りを帯びている。

「姫様」ロゼッタの声が思索を破る。「授業の時間です。部屋へお戻り下さい」

「今日は勉強をする気分じゃないわ」

「姫様が勉強をされる御気分だった試しはありません」

 マリーは口を尖らせ、不承不承腰を上げた。

 部屋に戻ると、街からやって来た司祭が待っていた。彼が今日の家庭教師である。

 恭しい挨拶の後、司祭は早速授業に取り掛かった。この日の科目は基礎魔法。座学嫌いのマリーが興味を持てる、数少ない学問の一つだった。

 といって、司祭による授業が始まってからこっち、マリーが実際に己が力で魔法を使ったことは、まだ一度もない。ロゼッタから「実技がある」と聞いていたから楽しみにしていたのに、呪文の一つも唱えさせてもらってない。今日こそは、と毎度期待を募らせ机に向かうが、ついぞ机を離れぬまま授業を終えるのが今までだった。

「では本日は、教科書の第四章から」

 白い髭を擦りながら、老司祭は言った。まずい流れを察したマリーは手を挙げる。

「あの、先生」

「何ですかな?」

「いつになったらわたくしも魔法を使えるようになるのでしょうか」

 すると司祭は改まったようにマリーの方へ身体を向けて、咳払いした。

「姫様。貴女は魔法について、どの程度のことを御存知ですかな?」

「火を起こしたり、風を吹かせたりすることが出来るものでしょう?」

「それらは飽くまで表層のことに過ぎません。魔法が何たるか。人がいかにして魔法を使うようになったか。そういった根源の部分を知らずして、力の恩恵だけを授かろうとするのは、大いに危険なことでございます」

「今までの座学ではまだ足りないのですか?」

「まだまだ」司祭は首を振った。「まだ魔法の『ま』の字も学ばれておりませんぞ。そんなことでは、魔法の力に呑み込まれてしまいます」

 それから司祭は、魔法の成り立ちについて渾々と語り始めた。大昔、人と竜は共に、神の治める同じ土地で暮らしていた。竜は神と決別し、怒った神が竜に呪いを掛けた。彼らの命を炎に変えてしまったのだ。代わりに、人間には魔法の力が授けられた云々。尤も、これらは初めの方の授業でも聴かされた話だ。そもそも、ベレヌスに住まう者なら誰もが知っている伝承だから、今更改まって学ぶほどのことでもない。

「本能の赴くまま、無闇矢鱈と力を使うのは竜のすることです。神に後ろ砂を掛け楽園を出て行った、咎人の所業と同じなのです」

 その言葉に、マリーは左の手首に手を添える。最近ではすっかり癖となっている。そこには、地下倉庫で拾った白い欠片で作った腕飾りが嵌められていた。欠片に穴を空け、紐を通しただけの簡素な物だったが、彼女はこれを肌身離さず身につけていた。

 触れた欠片は、ほんのりと熱を帯びていた。

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