第1場(2)

 夜、寝床で目を瞑る。

 ハッとして周りを見ると、あの場所に立っていた。空と、空を映した広大無辺な水面に。

 果てのない湖――。

 そしてギギは、人間の姿になっていた。

「あら」

 振り返ると、マリーが立っていた。

「また会えましたね。もうあれっきりかと思っていたわ」

 彼女は波紋を作りながら、ギギの方へやって来る。ギギは胸の高鳴りを覚える。相手が人間だから、という理由だけではなさそうだ。

「ねえ、少し歩きません?」

「え?」

「今日はまだ時間がある気がするの。歩きながらゆっくりお話しがしたいわ」

 断る理由は特になかった。

 歩いても歩いても、全く変わらぬ景色。その場で足踏みをしていると言われても疑いようはない。ただ一つ、前に進んでいるという証拠は二人の後ろに残る波紋の列のみである。

 同時に起こった波紋は時にぶつかり合い、時に溶け合う。大きな一つの円となり、そこに映る空を揺らしたかと思えば、何事もなかったように元の静けさを取り戻す。そんなことが何度も、何十回も、何百回も繰り返される。

 色々な話をした。

 互いの住んでいる場所について。

 マリーはベレヌスという国に住んでいるらしい。草原に囲まれた、長閑な場所だという。そこで彼女は毎日毎日勉強をさせられているそうだ。好きに出歩くことも出来ず、退屈していると彼女は言った。

「翼が生えて、飛んで行けたらいいのにって、いつも思うわ」

 ギギは弱々しい笑いを返した。

 彼もまた、己の住処について話した。風の強い山の上で、岩ばかりの寒々しい光景が広がっている。植物など滅多に目にすることはないが、先日、岩の隙間から一輪の花が芽生えているのを見つけた、と。

「君が住んでいる所に較べれば、つまらない場所だよ」

「いいえ、とても興味深いわ。わたしはそのような場所に行ったことがないもの」

「来ても何もないよ」

「花があるじゃない」マリーが言った。「あなたはそれを見つけたから、わたしに話してくれたのでしょう?」

「そうだけど」ギギは言った。言ってから、そうなのか、と思った。

 マリーとの会話は、谷の誰とするそれとも違った。話題が新鮮だということもある。だがそれ以上に、普段口にしないような言葉が出たということが大きかった。引き出された、というべきかもしれない。自分でも見逃していた自分に関する新たな一面を、彼女が照らし出してくれるようだった。

 二人は波紋を生み出し続ける。

 マリーは遠い土地の話を聞くのが好きだと言った。

 ギギは雷の音が嫌いだと言った。

 マリーは算術の授業が嫌いだと言った。

 ギギは雲を眺めるのが好きだと言った。

 マリーは今の暮らしが退屈だと言った。

 ギギは自分がみんなに馬鹿にされていると言った。

 マリーは大人になると名前が変わるのだと言った。

 ギギは母親を幼い頃に亡くしたと言った。それは二人にとって、ほとんど唯一の共通点だと判明した。

「あなたは独りなの?」とマリーは訊いた。

「独りというわけではないけれど」とギギは答えた。「いつも味方になってくれる友達が一人いる」

「そう。それならよかった」

「君にはいないの、そういう人?」

「友達、と呼べるような人はいないわ」

「周りに歳の近い人は?」

「いることはいるけど、友達とは違うわね」

 独り、とギギは口の中で呟いた。

 マリーが跳ぶように数歩先へ進み、振り返った。

「だから、こんな風に誰かと気兼ねなく喋ったのって生まれて初めてなの」彼女は照れたように笑い、肩を竦ませた。「ごめんなさい。嬉しくって、つい喋りすぎてしまったわ。話を聞いてくれてありがとう」

 再び歩き出したマリーの背中を、ギギは見つめた。小さな背中だった。

 喉元に何かが引っ掛かっていた。それを吐き出そうとするが、自分だけでは無理だった。

 手助けしたのは、一歩ずつ遠ざかっていくマリーの後ろ姿だった。彼女が見えない糸で引いているように、喉元のつかえはスルリと滑り出した。彼女を呼び止める声となって。

 マリーが立ち止まり、振り返った。

 碧い眼差しが、真っ直ぐに向けられる。

 息を呑む。拳を握り、怯みそうになる気持ちを引き締める。

「僕でよければ」切り立った崖の上から踏み切った時の、初めて風に乗ったあの時の気持ちを思い出しながら、彼は言った。「君の友達にしてもらえないかな」

 風が渡ってきた。

 マリーの、長く艶やかな黄金色の髪が泳いだ。

 彼女は呆けていた。大きな瞳を丸くして、唇は無防備に小さく開かれていた。

 その唇が、やがて結ばれた。そして下弦の弧を描く。顔に掛かった髪を押さえながら、マリーは微笑んでいた。岩間に咲く、花のような笑みだった。

「喜んで」

 そこで目が覚めた。

 目を開けているのに、何も見えない。暗い。まだ夜明け前のようだ。ようやく目が慣れてきても、寒々しい岩肌があるばかりだった。

 夢の名残といえば、鱗に当たる水の気配だ。どこかで断続的に流れている。

 が、すぐに音の正体に思い至って、持ち上げていた首を下ろす。

 穴の外では雨が、竜たちを表へ出すまいと意志を固めたかのように降り続いていた。おまけに雷まで伴っていた。

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