第2場(4)
夢を見た。自分は今、夢を見ているのだと、すぐに実感できた。
頭上には青い空が広がり、雲が静かに浮かんでいる。
足元にも、同じ空。まるで空の中にいるようだ。一瞬驚き半歩退いたが、その途端、足元の空には波紋が広がった。彼女が立っているのは水の上だった。
深さはない。ごく浅い水面が、見渡す限りどこまでも広がっている。
果てのない湖――。
知らない場所だ。だが、マリーの心に不安はなかった。むしろこの場所を心地よく思い初めてさえいた。知らない場所、知らない景色。たとえ夢とはいえ、そうしたものを見られることは、彼女に無上の喜びをもたらした。
ステップを踏むように、歩いてみる。水が撥ねてドレスを濡らすことはなかった。彼女が通った後には波紋が広がり、やがて消えていく。水面は、鏡のように静かになる。
下を向けば、自分と目が合った。髪を結い上げていない、紛れもなく自分の顔である。
頬に手を添えた鏡像が波で揺れた。マリーが起こしたものではない。
顔を上げると、そこには鏡の中の自分と同じぐらいの青年が立っていた。
知らない青年だ。舞踏会などで会ったこともないと言い切れる。石を加工したような装飾品に、頬に赤い筋を入れた化粧。出で立ちからして、そもそもベレヌス周辺の国々とは習俗が異なっていた。書物でも見たことない。物語に出てくるような、全く未知の文化を思わせる。
小さく口を開いたままのマリーだったが、相手も呆けた様子でいるのを見て、少し気持ちに余裕を取り戻した。彼女はドレスの裾を摘まみ上げ、軽く頭を下げた。
「ごきげんよう」
青年も頭を下げた。言葉が通じるらしい。
「わたしはマリー=レ=ベレヌス。あなたは?」
「あ、えっと……」青年は突然空から林檎が落ちてきたように慌ててから、「……ギギ」
「ギギ。珍しいお名前ね」
「君の方こそ」
「そうかしら? ありきたりな名前だと思うけど」
母も祖母も同じ名前だった。生まれた時にマリーと名付けられ、妙齢でマリアとなり、やがて母になるとマリアンナと呼ばれるようになる。王家に生まれた女に名付けられることを宿命とし、共に成長していく名前である。嫌いではなかったが、かといって好きというわけでもない。好き嫌いを抱く以前に、そういうものだという思いが強かった。
「綺麗な名前だ」
青年が言った。ぽつりと呟くようだった辺りが、本心だと感じさせた。
「ありがとう。あなたのお名前も素敵よ。とても勇ましい感じがする」
「名前だけだよ」
彼は僅かだが俯いた。マリーはなんとなく、話題を変えるべきだと思った。
「あなた、もしかして遠くの国にいるんじゃなくて?」
「どうだろう……何が起きてるかわからなくて。これは夢なのかな?」
「そうね、恐らく」
「君は楽しそうだね」
「ええ、とっても。夢の中とはいえ、出会う筈のなかった人とこうして会えたんですもの」
「すごいな。僕は到底そんな気持ちになれないよ」
マリーは一歩踏み出し、相手との距離を詰めた。
「ねえ、あなたのいる国について教えて。どういう所にあるの? どうしてわたしの言葉がわかるの? わたしがいるのはベレヌスという国で――」
息せき切って喋る。訊きたいことは無限に湧いてきた。どれから訊くのが良いか、選ぶのももどかしかった。だから思いつくまま問いかけた。
その内に、舌が空回りしているような感覚が広がってきた。言った筈のことを言っていない。言おうとしていることを、次の言葉が覆ってしまう。早くしなければ、と思ったのは、無意識のうちにこの夢の「終わり」を感じていたからかもしれない。
やがて、目の前の青年が遠くなる。
意識が身体から離れていく。
「待って!」叫んだつもりだったが、声にはならない。
まだここにいたいのに、踏みとどまることは叶わなかった。
気が付くと、目の前には見慣れた天蓋が広がっていた。
窓の向こうが明るい。小鳥の影が二つ、連れ立つように横切っていった。
マリーはベッドの上で半身を起こした。頭はぼんやりしていたが、先ほどまで向き合っていた青年の顔ははっきりと思い出すことが出来た。
「ギギ……」呟くと、自然と口元が綻んだ。
シーツに突いた右手に、小さな塊が触れた。地下倉庫で拾った欠片であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます