第2場(1)

 風が出てきた。なんとなく、雨の匂いもする。

 それでもマリーは、下に戻る気にはならなかった。むしろ、雨が降り出すまではここにいようと決意を固めた。

 城で一番高い尖塔の、屋根の上。彼女は暇さえあればここへ上った。無論、城の者たちには危険だからと禁じられたが、この場所から見渡せる景色を思えば、周囲の大人たちから受ける説教など何でもなかった。

 ここからは、王国の全てを見渡すことが出来る――。

 初めてマリーをこの場所へ連れてきた、父の言葉が蘇ってくる。たしかに、眼下には王都の街並みが広がり、城壁の向こうには緑の草原と、そこに点在する領内の村々が一望できる。更に遠くへ目を転ずれば、霞みがかったタラニスの山々。マリーが今眺めているのは、父の言う通り「ベレヌス王国の全て」なのであった。

 出入りに使っている窓の、開く音がした。

「お戻りください、姫様」侍女のロゼッタである。「陛下がお呼びです」

「お見合いならしないと言った筈よ?」マリーは振り向きもせずに言う。「わたしはどなたの妻になるつもりもありません、と」

「またそのようなことを」

 ロゼッタは呆れたような声で言う。二つしか離れていない筈なのに、マリーにはこの侍女が自分の母ほど年上のように感じられる時がある。尤も、母に関する記憶はそう多くは残っていないのだが。

「今日は別の用件だそうですよ」

「別の?」前を向いたまま訊き返す。

「討伐隊がタラニスから戻ったそうです」

「本当?」今度は勢いよく振り返った。その拍子に足を滑らせ、危うく転落しそうにさえなった。

 ロゼッタに手を掴まれ九死に一生を得たものの、そんなことは些事に過ぎぬと、マリーは適当な礼の言葉を言い置いて塔の螺旋階段を駆け下りた。目指すは謁見の間。そこに、彼女の求めていた報せが待っている筈だった。

 翼竜を連れて帰ってきたとの報せが。


 マリーが席に着いた時には既に、四人の男たちが絨毯に膝を突いていた。

 鎧に身を包んだ戦士に、黒いローブを纏った魔道士。筋肉が逞しいあとの二人は、力仕事を担っているようだ。彼らは傭兵で、翼竜討伐のためにタラニス山脈へ使わされた者たちである。二週間ほど前の、出発の挨拶にもマリーは立ち会っていた。

「面を上げよ」マリーの隣の玉座から、ベレヌス国王が言った。

 四人がゆっくりと顔を上げた。

「して、此度の討伐、首尾は成果はいかほどであったか」

「は」鎧の男が口を開く。「恐れ多くも申し上げますと、撃退には成功したのですが、討ち捕らえることは出来ませんでした。」

「撃退には、だと?」と声を挙げたのは、玉座の傍らに立つ宰相のノルマントである。「逃げられただけであろう? あれだけの装備を揃えさせておきながら何たる様だ。報酬を得たくば竜の一匹でも仕留めてこんか」

 小言をぶつけられ、傭兵四人は心なしか小さくなっているように見える。そこへ国王が割っては入った。

「その辺にしておけノルマント。一先ず危機が去ったのなら、成果はあったというものだ」

「……御意に」ノルマントは眉間に皺を作りながらも引き下がった。

「しかしながら陛下」今度は魔道士が言った。「代わりといってはなんですが、或る手土産を拾って参りました。是非とも偉大なるベレヌス王室に献上いたしたく存じます」

 逞しい二人組が、己の後ろに横たえてきた物体を前に出す。先ほどからマリーも気になっていた布包みである。大きさは丁度、マリーの上半身と同じぐらいだろうか。

 男たちによって結び紐が解かれると、中からは白い円錐形の塊が現れた。初め、それは何かの装飾品のように思われた。乳のように白く、艶やかであった。しかし、円の部分に欠けたような形跡がある。何処かに根を張っていたものをへし折ったような、破壊の痕跡に見えた。

「こちら、竜の鼻頭の角にございます。翼竜撃退の証として、国王陛下並びに姫殿下へ献上いたします」

 マリーは両方の肘掛けを強く握った。出来ることなら今すぐ腰を上げ、触りに行きたかった。噂にしか聞いたことのない竜の痕跡が目の前にある。その手触りを、自身で確かめたかった。

 父に頼もうと振り向くのと同時に、宰相の声が轟いた。

「汚らわしい! 何というものを持ち込んでいるのだ!」

 マリーは咄嗟に言葉を引っ込める。

「化物の一部を神聖なる城内へ持ち込むなど言語道断、王室への反乱に値する! おい、この者たちを引っ捕らえろ!」

 隅に控えていた近衛兵たちが四人の男を取り囲む。

「まあ、良いではないか。彼らとて、報酬を得るためには証左が必要だ。悪気があったわけではあるまい」

 王の言葉で、近衛兵の包囲が緩んだ。

「その得物、一先ず私が預かろう」

 マリーは父の言葉に、両手で口元を覆った。驚きではなく、笑みを隠すためだった。

「しかし陛下、汚れた竜の身体などを城中へ置いては祟られますぞ」

「その分、いつもより厚く神への祈りを捧げよう」

「そういう問題では……」

「話は後で聞こう。それよりまず、その四人に報酬を与えよ」

 青ざめた表情から一点、四人の傭兵に喜びの色が浮かんだ。マリーの目は、彼らの前に転がる艶やかな竜の角に釘付けだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る