第1場(3)

 雨は一晩に渡り、降り続けた。朝、ギギが洞穴から這い出ると、全てを濡らし尽くされた谷は、雲間から射し込む朝日を浴びて其処此処で輝きを帯びていた。

 大きく伸びをして、一息吐く。雨は嫌いだが、雨上がりの朝は嫌いじゃない。

 羽ばたき、風に乗って舞い上がった。途中で狩りに出る者たちとすれ違った。挨拶ついでに誘われたが、ギギは首を振った。

 谷を抜け、青空の下へ出ると、上昇していた風が横向きに変わった。頭の上では雲が音もなく流れていた。その行き先を振り仰げば、視線は自ずと堂々たる頂に行き当たる。雲はこの岩山にぶつかると撹拌され、その形を変えては、また風に押し流されていくのであった。

 眼下には、鮮やかな緑の平野が広がっている。茫漠たる草原の所々にある斑模様は雲の影である。また、四角や尖った岩が密集しているのは〈村〉と呼ばれる人間の住処だ。それらは大体が円を描いて寄り集まっている。

 遥か遠方には一際大きな円が見える。古老はそれを〈都〉と呼ぶのだと言っていた。中心に聳える尖った岩は、距離から推測するにかなり高い筈である。なんとなく「頭領の住まい」といった趣を感じさせるがその通りで、そこには人間たちの長が住んでいるとのことだった。

 どこからか、小さな鳥が飛んできた。雲の切れ端から生まれたのかと思うほど白い鳥は、ギギの目の前を横切った。その行く先には、岩場の窪みに出来た水溜まりがあった。昨夜の雨が作ったらしい。鳥は何度か嘴を水面に入れると、満足したように飛び去った。

 今度はギギが水溜まりの端に立った。水面を覗いてみると、青い空の中に自分の顔があった。鼻先から上を向いて伸びている筈の角が、根本から欠けている竜の顔が。

 ギギは瞼を閉じた。いま目にしたものを追い払うように頭を振り、水溜まりから顔を背けた。再び目を開くと、視界の端に黄色いものが映った。気のせいかとも思ったが、その黄色はたしかに存在した。

 花である。岩の間から這い出るように緑の葉が張り付き、そこから花弁を乗せた茎が伸びている。黄色い玉のような花は、風に吹かれて揺れていた。

 ギギはしばらくの間、花の動きに心を奪われた。自分たちの住処で花を見るのは初めてだったのだ。岩に囲まれた谷では、花は元より植物といえば岩陰に生した苔ぐらいしかなかった。

 足が自然と引き寄せられた。呼ばれているような気がしたのだ。

 気付いた時には、花はすぐ目の前にあった。近づいてみると、鼻息で吹き飛んでしまいそうなほど小さい。ギギは注意しながら、鼻の先を寄せてみた。

 草の匂いがする。それだけでなく、もっと豊かな、彩を感じさせる匂いもある。

 地上の匂い――。ギギは胸の内側でそう呟いた。

「やっぱりここにいた」

 突然の声に、危うく花を吹き飛ばしそうになった。

 振り向くと、翼を畳むビビの姿があった。

「ビ、ビビ……」

「穴にいないからもしやと思ったけど。お前、ホントにここ好きだよな」

「う、うんうん。大好き」頷きながら、花を背中に隠す。何故だか自分以外には見られてはいけない気がした。

「なんだよ、どうかしたか?」

「べべべ別に」

「何か隠してんのか?」ビビが怪訝そうに首を伸ばしてくる。

「隠してない、隠してない」

 ビビの向こうで、谷の中から竜の影が三つ飛び出してきた。ジョジョ、トト、ポポという、ギギと同年輩の連中だ。彼らはそれぞれの尻尾を追うように、ギギたちの頭上で旋回し始めた。

「おやおや、御曹司がこんな所に」と、ジョジョ。

「昨日の狩りは大変だったようで」と、トト。

「残念ながら収穫はなしだとか」と、ポポ。

「収穫どころか、失くしたものがあるんだって?」

「ちょっと、おい、あれ見てみろよ。あいつの鼻」

「角が……角がないぞ?」

 わざとらしい物言いに、ギギは俯く。

「一体どうなさったんで? その角――熱っ!」

 見ると、旋回の陣形が崩れていた。隣ではビビが口に炎を湛えている。それで大体、何があったのか理解出来た。

「お前ら、いい加減にしないと次は当てる」

 舌打ちがした。

「オトコ女が」

「お前の方がよっぽど頭領に向いてるぜ」

「ブス!」

 人は飛び去っていく。その尻尾目掛けて、ビビはもう一発火球を放った。

「あいつら」ビビは彼方に向けて睨みを利かせてから、「角のことは気にすんなよ。また生えてくるって」

「うん……だけど、ジョジョたちの言ったことも正論だよ」ギギはポツリと言った。「僕はたぶん、頭領には向いてない」

「ギギ……」

 仄かな雨の匂いが鼻をくすぐった。風上へ顔を向けると、草原の上に黒い雨雲が浮かんでいた。

「また雨か」同じ方を向いていたビビが言った。「最近、やたらと多いな」

 ギギは黙って黒雲を見つめた。

 ずっと雨が降ればいいのに、と彼は胸の内で呟く。そうすれば、洞穴に籠って、あちこち飛び回らずに済むのに、と。

 外の世界は、ギギにとって辛いことばかりであった。

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